■S:今日の聖書の言葉
エレミヤ書20章9−10a節、使徒の働き20章24節

★私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。私が多くの人のささやきを聞いたからです。

★けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

■O:今日のコラム
エレミヤもパウロも主のみことばを語り、ひどい迫害を受けてきました。

しかし、面白いことにそれに対しての二人の反応が違います。

エレミヤは、今日の1つ目の箇所であるように、人々からのそしり、またささやきが嫌で、辛くて、主のみことばをもう語りたくないと。けど語らないと、心のうちでモヤモヤが残るというか、語らざるおえない状況に陥っていると言っています。しまいには、この章の後半で、自分の生まれた日を呪い始めます。

彼の気持ち、皆さんもよく分かると思います。他の預言者が(偽預言者ですが)、イスラエルに希望のメッセージを語っている隣で、裁きについて語らなければならない。それも人々は、裁きについて、耳も傾けようとしないし、逆にののしってくるから、語りたくないですよね。。。

パウロはというと、彼はエルサレムに上って主のみことばを語るように導かれていました。そして、聖霊からすでに、エルサレムで、なわめと苦しみが待ち受けていると言い聞かされていました。また、後の章を読み続けると、いろんな人が、ましてや、真の預言者たちが、パウロに、エルサレムに行かないよう語ります。

しかし、これに対して、パウロは、どのように反応したでしょうか?

答えは、今日の2つの目の箇所です。
彼は、語りたくないと思ったのではなく、逆に命が亡くなってでも、主の使命を果たせるなら光栄だ!と思ったのです。だから、明日読む章で、彼は、引き止めようとする人々に、「私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりではなく、死ぬことさえも覚悟しています。」と大胆に言っています。

人々のささやきや罵りを聞いてしまい、主のみことばを語ることに心が折れそうになるが、みことばが胸の内に燃えて耐えられなくなり、語り続けたエレミヤ。

聖霊からも、人々からも、これから起こる苦しみについて語られたが、主のみことばを語り続けるという使命を全うするため、大胆にエルサレムへ上っていったパウロ。

旧約と新訳で時代も状況も違うので、二人を比べることはできないのですが、私は、パウロのように、どんな状況にあっても、喜んで大胆に主のみことばを語り続ける者になりたいと思いました。

■A:考えてみよう
エレミヤ、パウロ、どちらにせよ、彼らは、どんな状況でも主のみことばを曲げずに語り続けてきました。私たちも同じように、どんな状況にあっても、主のみことばを語り続ける者となっていきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 かよ 】

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