■S:今日の聖書の言葉
使徒の働き7章54 – 56節
★人々はこれを聞いて、 はらわたが煮え返る思いで、 ステパノに向かって歯ぎしりした。
しかし、 聖霊に満たされていたステパノは、 天を見つめ、 神の栄光と、 神の右に立っておられるイエスとを見て、
こう言った。 「見なさい。 天が開けて、 人の子が神の右に立っておられるのが見えます。 」
■O:今日のコラム
私はこのマナメールの記事を書くにあたって、ステパノという人物について調べ、また彼の歩みを想像しながら、祈りの家で何度もこの箇所を読み返し、思いをめぐらしました。そうしている中で、この記事を書くことを放棄したくなるほど多くの啓示を主から与えられました。そして私もステパノのように生きたいと心から思わされました。彼の生き方こそ、終わりの時代に生きる聖徒のモデルです。
ステパノという人は昨日読んだ聖書の箇所の後半に登場します。彼は十二使徒から選ばれたリーダーの一人でした。使徒の働き6章8節に彼に関しての事が書かれています。
「さて、 ステパノは恵みと力とに満ち、 人々の間で、 すばらしい不思議なわざとしるしを行っていた。」
このような働きをしていたステパノを見て面白く無いのは律法学者たちです。例のごとく民衆や長老を扇動して、あることないことを並び立て、ステパノを議会に連れてきます。今で言えば国会の証人喚問のような感じでしょうか。そこでステパノは恐ろしくなって逃げたのではなく、彼の顔は御使いの顔のように見えたと書かれています。そして、ここから2節から50節という短さで旧約聖書のアブラハムから捕囚までの歴史を見事に語ります。
私ならここで反論したり、弁明したりしたくなると思いますが、なぜ不利な立場に立たされ、あることないことを言われたステパノは旧約聖書の話をし始めたのでしょうか。それは、同国民に対する愛ではないかと思います。この旧約聖書の壮大な神の計画は全てイエス・キリストを指しているということに気づいてほしいというステパノの愛に満ちたメッセージだったのではないかと思います。
議会の人々はステパノの話に引き込まれていたでしょう。しかし、ステパノはその話を聞いても悟らない彼らに対して、最後の一撃を解き放ちます。
「あなたがたは、 御使いたちによって定められた律法を受けたが、 それを守ったことはありません。」
(53節)
人々に律法を守るように教えているあなた方自身が律法を守ってないではないか!とズバリ真実を突きつけます。それを聞いた人々ははらわたが煮え返る思いであったと書かれています。この「はらわたが煮え返る思い」とは、言語の意味では「のこぎりで引かれてバラバラになる」という意味があります。
ステパノのメッセージは人々の心を幸せにするものではありませんでした。むしろ聞く者に、心を突き刺すような悔しさを引き起こしました。これこそ真のメッセンジャーです。多くのメッセンジャーは人々を励まし、祝福するでしょう。それはとても重要で大切な事です。しかし、真のメッセンジャーは人々に悔い改めを生じさせるのではないかと思います。自分にとって都合のいいメッセージだけを聞くのではなく、耳に痛いことも自分のこととして受け取り、悔い改め(自分勝手な歩みを止めて神の道へと方向転換する)ていきましょう。
そのようなメッセージをしたステパノに対し、悔い改めた者はいませんでした。愛を持って語ったメッセージに対して返ってきたものはステパノの命を奪う石でした。人々はステパノを町の外に追い出し、そこで石を投げつけて殺してしまいました。しかし、そのような中でもステパノは「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」と祈りながら眠りにつきます。そうして、ステパノはイエス様の弟子で殉教者の第一号となりました。
その様子を天から見ていたイエス様は、この事に胸が張り裂けそうになり、耐え切れなくなってその御座から立ち上がられました。
「こう言った。 「見なさい。 天が開けて、 人の子が神の右に立っておられるのが見えます。 」
(56節)
かつて幕屋で仕えた大祭司はその務めの間、決して座ることはありませんでした。しかし、十字架ですべてを「完了した!」と叫ばれた永遠の大祭司なるイエス様は天の父の右の座にお座りになりました。父の元で安息されたのです。しかし、このステパノの出来事はイエス様も立ち上がらざるを得ないほどの尊い出来事だったのです。先にも後にもイエス様を立ち上がらせたのはステパノ以外いないのではないかと思います。
では、なぜステパノはこのような事ができたのでしょうか。そのひとつはステパノが聖霊様に満たされていたからでしょう。55節にしっかりとその事が書かれています。
「しかし、 聖霊に満たされていたステパノは…」
終わりの時代の私たちも聖霊様に満たされる必要があります。悪魔はありとあらゆる手を使って、私たちを神様から遠ざけようとします。楽しさや快楽を与えるこの世がもたらす「酒」を私たちの前に持ってくるでしょう。しかし、私たちはそれを決して飲んではいけません。
「また、 酒に酔ってはいけません。 そこには放蕩があるからです。 御霊に満たされなさい。」
(エペソ5:18)
ステパノが殉教できたもう一つの理由は、彼の目の先にあります。続く55節の後半にはこのように書かれています。
「天を見つめ、 神の栄光と、 神の右に立っておられるイエスとを見て」
ステパノはただイエス様しか見つめていませんでした。彼の目にはイエス様しか写っていなかったのです。それはまるで雅歌に書かれている乙女のようです。
「ああ、 わが愛する者。あなたはなんと美しいことよ。なんと美しいことよ。 あなたの目は鳩のようだ。 」
(雅歌1:15)
鳩は一点しか見つめることが出来ないという特性があります。私たちはこの惑わしの多い終わりの時代にあって、鳩のように一点にただイエス様だけを見つめて歩む必要があります。
聖霊様に満たされ、ただイエス様だけを見つめる生き方。これがステパノから学ぶことが出来る終わりの時代の聖徒らの生き方です。イエス様のために命をも捧げることを惜しまない殉教者の心を持った究極の信仰の姿です。キリストの花嫁の姿です。このステパノの最期の姿を見るなら、誰もがイエス様に似ているということに気づくでしょう。ステパノは文字通りイエス様に似たものなっていきました。
そのような生き方を私たちに示してくれたステパノという名前にもその事が掲示されています。「ステパノ」という言葉は「冠」と言う意味があります。あらゆるものを犠牲にして自分を鍛錬し、走るべき道のりを走りぬいたもの、その勝利者だけに与えられるのが冠です。正にステパノはそのような生き方をしました。イエス様が十字架でなされたように、またステパノも死に至るまで忠実でした。
「あなたが受けようとしている苦しみを恐れてはいけない。 見よ。 悪魔はあなたがたをためすために、 あなたがたのうちのある人たちを牢に投げ入れようとしている。 あなたがたは十日の間苦しみを受ける。 死に至るまで忠実でありなさい。 そうすれば、 わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」
(黙示録2章10節)
これからの時代、日本において、また世界各地において今まで歴史上誰も見なかったほどの魂の大収穫が起こっていくでしょう。しかし、それと同時に迫害も起こっていくでしょう。そのような大きな揺り動かしに耐えうることが出来るものはステパノのように殉教者の心を持った者です。イエス様の愛を本当に知ったのであれば、誰もが殉教者の心を持っていくのではないかと思います。
もし、「自分はそんなことは無理だ」と思うなら、そのとおりになります。信仰はそこで頭打ちになり、それ以上キリストに似たものとして成長していくことは出来ないでしょう。だから、みことばによって力を受け、キリストの身丈に達するまで成長していく事が大切です。
「私は、 私を強くしてくださる方によって、 どんなことでもできるのです。」
(ピリピ4:13)
このような信仰を持って、共に祈り合い、励まし合いながら戦うべき戦いを戦い、走るべき道のりを走り切ろうではありませんか。イエス様と顔と顔を合わせてお会いできるその日まで。
「私は勇敢に戦い、 走るべき道のりを走り終え、 信仰を守り通しました。」
(2テモテ4:7)
■A:考えてみよう
自分で自分を制限していることはないでしょうか。私も以前は徹夜の祈りなどは絶対できないし、断食など到底出来ないと思っていました。しかし、イエス様がどれほど私の事を愛してくださっているかという事実を知った時、それらは喜びとなりました。
自分で自分を制限すること無く、毎日を全力で生きましょう。目の前の一つ一つのことに手を抜かないで、誠心誠意全力で取り組んでいきましょう。小さな事に忠実なものは大きなものにも忠実です。その訓練として、今までの経験に頼ること無く、後のことを考えないで一つのことに全力で取り組みましょう。何事も死ぬ気で取り組むのです。
その時に忘れてはいけないのは、イエス様だけを見つめて行なうということです。自分ためにそのようなことを行なうなら疲れ果ててしまうでしょう。しかし、主のために行なうなら、主は天から無限の力を供給してくださいます。イエス様とお会いできるというゴールを見つめつつ、今置かれている走るべき道のりを全力で走って行きましょう。今こそ踏ん張りどきです。ゴールはそう遠くないと信じます!共に主からいのちの冠をいただこうではありませんか。
■P:祈り
天のお父さん、心から感謝します。どうぞ私に今日を生きる力を与えてください。試練に耐え抜く力を与えてください。必要な励ましを与えてください。
そして、今日、あなたのためになすべきことを教えて下さい。ステパノのように、死をも恐れずただあなただけを一点に見つめて歩むことが出来るように、あなたの惜しみない愛を今日も注いでください。それをいっぱいに受け取ります。
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
【 しゅん 】
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