■S:今日の聖書の言葉
エレミヤ書6章10節(使徒の働き6章)

★私はだれに語りかけ、だれをさとして、聞かせようか。見よ。彼らの耳は閉じたままで、聞くこともできない。見よ。主のことばは、彼らにとって、そしりとなる。彼らはそれを喜ばない。

■O:今日のコラム
耳を開くか開かないか。その選択によって、神様のみことばが祝福になったりか、そしりになってしまいます。

皆さん、エレミヤ書を読み続ける中で、「神様、厳しい。怖い。裁きしか語ってない。」と感じていないでしょうか?

もし、そうであれば、言わせてください。
神様のみこころは、いつも祝福です。
神様はイスラエル、エルサレムを祝福したいといつも思っています。エレミヤ書を通して、皆さんがその事実を読み取れることを祝福します。

では、どうして、多くのそしりがあり、裁きがイスラエル、エルサレムにくだったのでしょうか?

それは、神様のことばに、耳を開いてきいたか、耳を閉じてしまったかの結果です。耳を開かず、聞く事をしないと、神様の祝福のことばでさえ、そしりとなってしまうのです。

例えば、イエス様のことばに耳を傾けていた群衆。その中で耳を開いて聞いていた人々は、そのみことばを心に受け止め、行った時、彼らの祝福となりました。それとは反対に、同じ場所で同じ時、同じみことばを聞いてたが、耳を開くことせず聞いてた人々(パリサイ人など)は、そのみことばが彼らのそしりになってしまいました。

ダビデが書いた詩篇の中で、彼はよくこういう言葉を書いています。
「あなたのことばを私は喜びます。」
「あなたの仰せは、わたしの喜びです。」

ダビデは、いつも心を開いて、神様のみことばを聞いていた人です。ある時は、神様からの厳しいことばだったでしょう。特に罪を指摘された時などは。それでも、ダビデは心を閉じることなく、みことばを受け入れました。その結果、神様は彼を沢山祝福しました。

エレミヤの時代の民は、ダビデと違い、神様のみことばを喜ばず、耳を閉じてしまった為、その結果、その言葉が彼らのそしりとなってしまったのです。

■A:考えてみよう
神様の御心は祝福すること。しかし、私が神様のみことばを心を開いて聞くか聞かないかによって、祝福をもたらすか、そしりになるかが決まってきます。それは、私たちの選択です。

ヘブル人の手紙3:7-8

ですから、聖霊が言われるとおりです。
「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」

今日、神様のみことばを耳と心を開いて聞き、祝福をいっぱい受け取っていきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 かよ 】

カテゴリー: マナメール

オンライン献金はこちらから。

大きな額の献金は手数料の少ない口座振り込みをお勧めいたします。

オンラインサポートの手順

Comments are closed.

  • 最近のコメント

  • 新宿シャローム教会 大久保会堂


    〒169-0073 東京都新宿区百人町1-23-24アミューズ大久保ビル2F
    TEL 03-3371-7558
  • アーカイブ

  • カテゴリー