■S:今日の聖書の言葉
マタイの福音書26章23節〜24節(詩篇148篇)
★イエスは答えて言われた。「わたしといっしょに鉢に手を浸した者が、わたしを裏切るのです。
確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」
■O:今日のコラム
「そういう人は生まれなかったほうがよかったのです…」
イエス様がユダのことを語られた御言葉。
この御言葉を見るたびに、私は「本当に厳しい言葉だ。イエス様にこんなことを言われてしまうなんてよっぽどだ。この言葉だけは言われたくない…」と思っていました。
マタイの福音書23章では、イエス様は、ご自分を救い主として受け入れることが出来なかったイスラエルの民に対して「 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」(マタイ23:37)
と語られました。
これは決してイスラエルを非難する言葉ではなく、救い主イエスを拒み、苦難の道へと自らを招いてしまったイスラエルの民のことを哀れに思われたイエス様の嘆きです。
「ああ、何故、御父の愛を拒んでしまったのか。」というイエス様の心からの涙の言葉です。
この時のイエス様は愛のお方です。そして主はいつも愛のお方です。
そのことを思い起こしながら、今日の箇所を読み直した時に、この言葉が違って響いてきました。
愛する友、ユダよ、なぜお前は滅びの道を選んでしまったのか…お前が滅びの道を選ぶのを見なければならないならば、いっそ生まれないでくれたなら良かったのに…。
「そういう人は生まれなかったほうがよかった…」イエス様はこう語りながら、かつて寝食を共にした友、ユダとの日々を思い出し、その瞳には涙すらあったのではないだろうか…
この言葉がイエス様の心の嘆きのように響いてきました。主の心からの嘆きはユダの心には届きませんでした。
ユダはイエス様とお金との間の選択で、お金を選んだのでした。
ユダはイエス様の身近な所にいた弟子でした。ですからこれは、私たちにとっても人ごとではありません。ユダのように、イエス様を悲しませる選択をする可能性は、いつも私たちの近くにあります。
私たちの前には常に、いのちへの道と滅びへの道があります。そして、もちろん主は私たちに、いのちへの道を選んで欲しいと願っておられます。
「私は、いのちと死、祝福とのろいをあなたの前に置く。
あなたはいのちを選びなさい。」(申命記30:19b)
日々の生活の中にたくさんの小さな選択があります。見るもの、聞くもの、語る言葉、私は無意識に選択しています。
そして何を考えるか、ですら私たちの選択にかかっています。
私たちはいつもイエス様の愛に応えて、いのちへと続く選択をしていきましょう。
裁かれることを恐れるのではなく、主の御心を悲しませることを恐れましょう。
■A:考えてみよう
私はいつもイエス様を選択しているだろうか?
私の選択(見るもの、聞くもの、語る言葉)はいのちへと続く選択だろうか?
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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