■S:今日の聖書の言葉
マタイの福音書23章13節(詩篇145篇)
★わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは人々から天の御国をさえぎっているのです。自分も入らず、入ろうとしている人々をも入らせません。
■O:今日のコラム
イエス様は、『しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。』(マタイ18:6)と語られました。とても強い口調で、指導者、リーダーがその導かれている信仰者をつまずかせることを嫌われました。教師は人一倍きびしい裁きを受けるとも聖書にある通り、リーダーには、権威も与えられますが、責任も同時に与えられます。
『つまずきを与える』と訳される言葉は、腹を立てさせる、妨げるという意味があります。だから、イエス様は19章においては、『子どもたち(小さい者たち)を邪魔しないで私のところに来させなさい』と言われています。リーダーは、メンバーがイエス様に近づく妨げになってはいけません。
この件でやり玉に挙げられているパリサイ人、律法学者に対して、23章で語られている大きな一つのテーマは、『人に見せるために行っている者』というテーマです。偽善者という形容がよく彼らに付けられていますが、偽善とは、ギリシャ語で、仮面をかぶって演技する、という意味があります。
リーダーは、人に見られる立ち位置になりやすいポジションです。だからこそ人の目を意識する生き方ではなく、主の目を意識する生き方をしなければ、人のつまずきとなってしまいます。一つの例を挙げれば、人がイエス様の元に心から近づこうとするときに、『でもリーダーのあの人は、人の目だけを意識する生き方をしているのに、自分のやろうとしている歩みは行きすぎなんじゃないのか?』という誘惑を起こしていくこともそうでしょう。
私自身は、牧師という立場が与えられていますが、同時に与えられている責任として、殉教者となる覚悟を毎日するべきであると思っています。もちろん愛によって、喜びをもって命を捧げたい、捧げたくなってしまう状態であり続けたいという思いですが、毎日自分を捨て十字架を負うのだから、自己保身の思いを感じるときは、そのときこそ危険だという感覚を覚えます。
牧師が『毎日が死の連続です』というパウロの言葉を自分のものとしているなら、いのちを捨てて主についていこうとしている魂を妨げない、つまずかせないと信じます。かえっていのちがけの愛を追い求めたいという渇望を人々に与えるはずです。私自身、それを強く追い求め続けています。
また、もう一つのイエス様の嫌われるグループがありましたが、それはサドカイ派というグループです。彼らに対する叱責は『しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」』(マタイ22:29)というものでした。御言葉を深く味わい、御霊の力を知っていくことが必要です。
終わりの時代のリーダーにはこれらの事が求められています。右にも左にもそれてはいけません。パリサイ人にも、サドカイ人にもそれてはいけません。マタイの21章でイエス様が終わりの時代の異邦人教会の姿である、祈りの家を宣言された近辺にこれらの記事が置かれていることを覚えます。今、この時点で信仰を持っている日本人は、リバイバルしたときには皆リーダーでなくては、日本は立ち行かないのです。皆がリーダーです。
■A:考えてみよう
いのちを捨てて愛する、命がけの愛を求め、味わい、解き放っていく。
御言葉を深く味わい、御霊の力を認め、信頼し、知っていく。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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