■S:今日の聖書の言葉
黙示録6章2節(詩篇104篇)
★私は見た。 見よ。 白い馬であった。 それに乗っている者は弓を持っていた。 彼は冠を与えられ、 勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。
■O:今日のコラム
みなさんは、白馬に乗った王子様に憧れたことがありますか?白馬に乗った王子様は誰が考えてもヒーローの象徴のように思えます。今日の聖書の箇所にその白い馬に乗り、冠を与えられた勝利の上にさらに勝利を得る人が登場します。この人は救い主でしょうか?それとも…?その事を詳しく見て行きたいと思います。
(1)白い馬
この「白い馬」というのは、黙示録の19章にも2回登場します。実は、黙示録19章の白い馬に乗ってくる者と、この黙示録6章の白い馬に乗ってくる者は別の人物なのです。結論から言うと19章の方はイエス様で、6章の方は偽物です。(その確固たる理由は後ほど記します)
「白」という色は神様の神聖、聖さを表す色です。私たちが忘れてはならないのは、このみことばです。
「しかし、 驚くには及びません。 サタンさえ光の御使いに変装するのです。」
(第二コリント11章14節)
そうです。サタンは光の御使に変装するのです。多くの場合、サタンは「ハッハッハ〜!私はサタンだぞ〜!」と言って私たちに近づいてくることはありません。そんなことをしたら、イエス様のお名前で一発でやられてしまうことをサタンは知っているからです。では、どのように近づいてくるかというと、羊の皮をかぶってやってくるのです。つまり、いかにも良さそうな、正しそうな格好をしてやってきます。私たちはこれを見抜く目を持たなければなりません。
そのためには、いつも本物に触れ続けることが必要です。祈りとみことばを通して、主との生きた関係があれば、サタンがどんなに巧妙に光の御使いの姿に化けたとしても、すぐに違和感を覚え、それを見ぬくことができます。
(2)弓
ここで「弓」という言葉として使われている言語は「トクソン」ということばで、実はここでしか使われていない言葉です。弓は、当時使われていた武器の中でも一番遠くまで届く武器でした。つまり、その力、支配が遠くにまで及ぶと言うことを意味しています。
悪魔の火矢を防ぐものは何でしょうか。そうです。それは信仰の大盾です。
「これらすべてのものの上に、 信仰の大盾を取りなさい。 それによって、 悪い者が放つ火矢を、 みな消すことができます。」(エペソ6章16節)
みことばにしっかりと立った信仰を建て上げていきましょう。
(3)冠
黙示録6章と19章に出てくる白い馬に乗った者の正体を見抜く決定的な部分はこの「冠」です。
日本語では「冠」という一つの言葉にまとめられていますが、実は新約聖書の中には二つの冠が登場します。一つは「ステファノス」、もう一つが「デアデマ」という言語です。ステファノスとはマラソンランナーの勝者に与えられるようないわるゆる「栄冠」の冠です。朽ちていく冠ということもできるでしょう。
一方、「デアデマ」とは、世の始まる前から王、また支配者として与えられている冠です。この冠はキリスト以外に与えられることはありません。黙示録6章で使われている冠は「ステファノス」、黙示録19章で使われている冠は「デアデマ」です。どうですか?これで、どちらがどちらかはっきりしたでしょう。この黙示録6章に出てくる冠(ステファノス)を与えられた白い馬に乗った者は光の姿に化けた反キリストです。
この者は世界中のあらゆる難問を次々と解決していき、人々から勝利者としての栄冠(ステファノス)を与えられていきます。しかし、それは惑わしであり偽りです。その見せかけの平和はやがて破綻していきます。
イエス様はマタイの福音書24章で弟子たちが「世の終わりの前兆はどういったものでしょうか?」という質問をしたことに対して、最初に言われたことは「⼈に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が⼤勢現われ、「私こそキリストだ。」と⾔って、多くの⼈を惑わすでしょう。」ということでした。イエス様の口から最初に出てきた言葉は「惑わし」だったのです。
様々な現象、また預言、その他あらゆる不思議なことを行ったからといって、それがそのままイエス様からだと思ってはいけません。今はそういう時代だということを私たちは知らなければなりません。いつの時代も常に正しいのは「みことば」です。みことばを私的解釈を施すこと無く、みことばをみことばとして受け取り、これを朗読し、心にとめることが大切です。
「この預言のことばを朗読する者と、 それを聞いて、 そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。 時が近づいているからである。」
(黙示録1章3節)
■A:考えてみよう
あなたは、全てを良いからといってそのまま受け入れてないでしょうか?食事でも同じです。見た目に麗しく、美味しそうに見えて何も考えずに食べると、それはロウでできた食品サンプルかもしれません。私たちは吟味する必要があります。間違った食品を食べてしまうとお腹が痛くなります。それは霊の世界でも同じです。間違った教えをそのまま受け入れてしまうと、混乱の霊が働いてしまい、最後にはイエス様が見えなくなってしまいます。
それを回避するためにはみことばと祈りの生活が欠かせません。しかも、それを自分勝手に行ってはいけません。必ず、教会にしっかりと植えられている必要があります。教会の覆いはとても強力です。この覆いの外に出るなら、悪魔の餌食となってしまうかもしれません。牧師のカバリングのもと、祈りとみことばの生活を続けるなら、主との生きた関係を続けていくなら、私たちは本物と偽物を見分けることができます。
もし、主とのゆるがない関係が築かれたらどうなるでしょうか。「主は私とともにおられる」という確信が与えられ、どんな困難、災難、また、迫害がやってきても、心は主の平安で満たされた状態になるはずです。そうなるなら、たとえ患難を通されても私たちは恐れることはありません。
天国に行ってから、また、携挙されてから幸せになるのではなく、私たちはたった今、この地においても幸いとなることができます。この地にいながら御国がこの地に侵入してくるのです。私たちはその鍵を主から頂いています。御国の鍵を用いて、イエス様のお名前の権威によって閉じられるものは閉じ、開かれるものは開かれていくように祈っていきましょう!
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しゅん 】
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う〜ん、なるほど〜!
原語を知らないと、騙されますね。今まで、どちらもイエス様だと思っていました。
ありがとうございました。