■S:今日の聖書の言葉
テサロニケへ人の手紙 第一 4章17-18節(イザヤ書32章)
★次に、 生き残っている私たちが、 たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、 空中で主と会うのです。 このようにして、 私たちは、 いつまでも主とともにいることになります。
こういうわけですから、 このことばをもって互いに慰め合いなさい。
■O:今日のコラム
(※今日のマナメールは非常に長くなってしまってすみません。しかし、とても大切なことであると感じますので、ぜひ読み飛ばすことはせず、じっくり読んでお一人お一人みことばに照らし合わせ、吟味していただけたらと願います。)
皆さんは、子どもの頃、誕生日や遠足、家族での良好を目前にして、ワクワクして眠れなくなった日はありませんか?私はおとなになったので、そのような体験はめっきり少なくなりましたが、実は今、その状態です。なぜなら、来週から生まれて初めて、イスラエルへ行くことができるからです!
私たちは、何か楽しみなことがあるとその日を今か今かと待ち望みます。その中でも、すべてのクリスチャンが最も楽しみにしている日はいつでしょうか。それは主イエスが再びこの地に戻ってこられるその日です。私たちの希望はここにあります。それは、イエス様が天に戻られて以来、今まで続いています。
実は新約聖書のほとんどの書簡で、この主イエスの再臨ということが書かれいてます。それほど、この時代のクリスチャンは熱烈に主イエスが戻ってこられることを待ち望んでいたのです。では、なぜ主イエスが再びこの地に戻ってこられることがそんなに楽しみなのでしょうか。もちろん、主と直接お会いできるという喜びもあるでしょう。しかし、それ以上に私たちが期待することは、その時に主の完全な統治が完成するということです。なんと興奮すべき事柄でしょうか。
今日の聖書の箇所は、主イエスが戻ってこられるときの様子がかなり具体的に書かれている珍しい箇所になります。その時、主イエスはみつかいのかしらの叫び声と、神のラッパの響きのうちに、招集の大声をあげて天から下ってこられます。そして、キリストにあって地上の生涯を終えた人がまずよみがえり、そして地上に生かされている人がよみがえった死人たちと一緒に一瞬にして雲の中に引き上げられ、永遠から永遠に至るまで私たちは主イエスと共に過ごすのです。この事を「携挙」と言います。
私たちは将来起こることに対して様々な憶測をしたり不安があったりするかもしれません。しかし、神様は優しい神様です。私たちにこの携挙のモデルをあらかじめ示してくださっています。その3人の人物を見て行きたいと思います。
(1)エノク
創世記5章24節にこのように書かれています。「エノクは神とともに歩んだ。 神が彼を取られたので、 彼はいなくなった。」また、ヘブル人への手紙11章5節にはこのように書かれています。「信仰によって、 エノクは死を見ることのないように移されました。 神に移されて、 見えなくなりました。 移される前に、 彼は神に喜ばれていることが、 あかしされていました。」
エノクは生きたまま天に引き上げられたと聖書は言っています。これこそ、携挙のひな形です。では、なぜエノクだけにこのような事が起こったのでしょうか。この二箇所のみことばからわかることは、「エノクは神と共に歩んだ」ということ、そして「移される前にエノクは神に喜ばれていた」ということです。主を愛し、主に愛される。そのようなキリストの花嫁の心を持ったエノクだったからこそ、生きたまま主の元へと移されることになったのではないかと思います。
さらに、ユダの手紙14章にはこのように書かれています。「アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。『見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。』」生きたまま天にあげられたエノク自身が主が再び来られる事を預言しているのです。ここからも、エノクが携挙のひな形であるということがわかります。
私たちもこの地上でエノクのように歩んでいきましょう。エノクはいつでも心に平安を持っていたことでしょう。私たちにも万軍の主が共におられます。その事を認めましょう。主は敵の前でも食事を整えてくださる方です。どんな問題があろうとも、その問題の上に主をお迎えし、心にいつも平安を持ちながらその時を迎えたいと願います。
(2)エリヤ
生きたまま天に上げられた二人目の人物はエリヤです。第二列王記2章11節にはこのように書かれています。「こうして、 彼らがなお進みながら話していると、 なんと、 一台の火の戦車と火の馬とが現れ、 このふたりの間を分け隔て、 エリヤは、 たつまきに乗って天へ上って行った。」
エリヤは信仰が見られない地域、時代においても主に対する信仰を持ち続けた人物です。第一列王記17章1節の前半には「私の仕えているイスラエルの神、 【主】は生きておられる。」と書かれています。この信仰を持って、バアルと戦い、勝利をおさめ、イスラエルに信仰の回復の道を整えました。
新約聖書において、バプテスマのヨハネはこのエリヤの霊が注がれていました。「彼こそ、 エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、 父たちの心を子どもたちに向けさせ、 逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、 こうして、 整えられた民を主のために用意するのです。 」(ルカ1:17)ここからわかるのは、エリヤは道を備えるはたらきがあるということです。私たちもエリヤの霊を受け、花嫁の心を持って主の来られる道を整えていくものとなりましょう。
(3)イエス様
聖書の中で生きたまま天にあげられた人物はエノクとエリヤですが、イエス様も一度十字架で私たちの罪を背負い死なれましたが、力強くよみがえられ、弟子たちにあらわれた後、生きたまま天に帰られました。「こう言ってから、 イエスは彼らが見ている間に上げられ、 雲に包まれて、 見えなくなられた。」(使徒の働き1:9)
イエス様はこのようにして、再びこの地に戻ってきてくださいます。これこそが私たちの希望です。それ故に、初代教会では「マラナ・タ」という挨拶をしてました、これは「主よ、来てください」と言う意味ですが、詳しく調べてみますと、アラム語で「マラン・アタ」といい、「その日は近い」と言う意味があるそうです。彼らは「主が来れられる日は近い、だから、信仰をしっかり保っておこうね。」と言う意味合いを込めてお互いに「マラナ・タ」と挨拶をしていたのです。そうです。主は必ず戻って来られます。
そこで、今日、はっきりさせたいと思います。いつ、主が戻ってこられるのか。再臨はいつなのか、携挙はいつなのか。
「ただし、 その日、 その時がいつであるかは、 だれも知りません。 天の御使いたちも子も知りません。 ただ父だけが知っておられます。気をつけなさい。 目をさまし、 注意していなさい。 その定めの時がいつだか、 あなたがたは知らないからです。」(マルコ13:32-33)
「ただし、 その日、 その時がいつであるかは、 だれも知りません。 天の御使いたちも子も知りません。 ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:36)
「だから、 目をさましていなさい。 あなたがたは、 その日、 その時を知らないからです。」(マタイ25:13)
答えは「わからない」です。
私もその日がはっきりと分かったらいいのにと思います。しかし、その日がいつかということが私たちに隠されているのは神様のご計画です。主の愛です。私も以前は様々な現象から、主が来られる日はいつかと調べた事があります。しかし、その後に私にやってきたものは激しい悔い改めでした。主は、祈りの中で「なぜあなたはみことばに背いて自分でその日を見つけ出そうとするのか。それよりも、もっとしなければならないことがないか、あなたの胸に手を当てて考えてみなさい。」と語られました。
本当に主の前に恥じ入るような思いでした。主は「明日のことは心配するな」と言われています。それなのに、被造物に過ぎない私が創造者である神の思いを超えて詮索しようとしてしまっていたのです。つまり、主御自身よりも「いつ主が来られるか」と言うことを上に置いてしまっていたのです。この事を聖書は「偶像礼拝」と言います。主はこの偶像礼拝をことさら嫌われます。私は聖霊様を悲しませてしまったのではないかと思いました。だから、私は本当に心から悔い改めました。そして改めて主に願いました。「主よ、私が知りたいのはいつ、あなたが戻ってこられるかという日にちではありません。私が知りたいのはあなたご自身です!」と。
終わりの時代には、様々なことが起こると聖書に書かれています。その中に「にせキリスト、 にせ預言者たちが現れて、 できれば選民をも惑わそうとして、 大きなしるしや不思議なことをして見せます。」(マタイ24:24)とあります。私たちは、終わりの時代にしっかりとみことばに立つ必要があります。人の意見や現象に惑わされてはいけません。聖書がどう言っているか。そのことが最も重要なことです。聖書を私的解釈すること無く、終わりの時代にふさわしい生き方をしていきましょう。
■A:考えてみよう
終わりの時代にふわさしい生き方とはどのようなものでしょうか。それはみことばにしっかりと立つということ。そして慎み深く生きるということです。パウロは、終わりの時代の生き方をこのようにすすめています。「また、 私たちが命じたように、 落ち着いた生活をすることを志し、 自分の仕事に身を入れ、 自分の手で働きなさい。」(1テサロニケ4:11)
もうすぐ主が来られるからといってすべてを投げ出し、派手な生活をすることは愚かなことです。むしろ、地にしっかりと足をつけ、落ち着いた生活をし、今自分のしている仕事にますます専念して身を入れるのが終わりの時代の正しい生き方ではないでしょうか。主を愛するがゆえにすべてを捧げるのと、もうすぐ終わりの時が来るからと言ってすべてを投げ出してしまうことは、一見似ていますが大きくかけ離れたことです。
私たちは聖書のみことばに立ち続け、時を悟り、賢く生きていきましょう。いつ主が来られてもいいように、絶えず油を満たす生活をしていきましょう。そして、主が来られるその日まで、互いに励まし合いながら主を待ち望みましょう。マラナ・タ。主よ、来てください!
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。
【しゅん】
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イエス様の携挙が、近いので、ワクワクしますね。
それと同時に、福音を知らない方に伝える地上での義務もあります。
主の願いを知り、主の心を実践するものとなりたいです。
マラナタ、主よ早く来てください!
私も携挙を強く待ち望んでいます。
今はますます終末色が濃厚になってきているのを、肌で強く感じ取れるくらいです。
今は時代が時代であるがゆえ、携挙の時まで、私が地上で生きているかどうかはかなり微妙…と言えますが、一つ言えることは、『いつも主を求めていくこと…』だと考えているところです。