■S:今日の聖書の言葉
ルカによる福音書7章7-8節(イザヤ書7章)
★ ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
■O:今日のコラム
今日の箇所では百人隊長のエピソードが出てきます。
イエス様が百人隊長の信仰を高く評価している場面です。
私たちの信仰もイエス様に喜ばれ、評価される信仰に成長して行きたいものです。
彼がイエス様に評価された理由は何でしょうか?
彼は口でこのように告白しています。
「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」(7節)
シンプルにイエス様のことばを信じていました。
イエス様のことばによって必ずしもべはいやされるということを信じきっていたのです。
しもべが癒される前に、既に癒しを受け取っていたのです。
このようなシンプルな信仰を神様は高く評価されるのです。
なぜ、百人隊長はこのような信仰を持つことが出来たのでしょうか?
その答えは(8節)にあります。
8節
と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」
実は、百人隊長はイエス様にある「権威」に気づいていたのです。
彼自身も百人隊長という立場で権威がありました。
百人隊長の命令には、その部下たちは必ず従わなければなりません。
8節の百人隊長の言葉は、
イエス様が全ての者の上に立つ権威ある者と認め、イエス様の口から語られることばに必ず従い、もしイエス様が「いやされよ」と言われたならば、そのことばに従い、癒しを必ず受け取るという信仰の現れです。
何とも力強い信仰の告白です。
百人隊長はイエス様がどのようなお方か気づいていました。
イエスが聖書に約束されているメシアであるということです。
この百人隊長は異邦人ですがイスラエルの神を信じていました。
イスラエルの神を恐れ、メシアを待ち望んでいた一人です。
メシアは「油を注がれた者」と言う意味です。
イスラエルで油を注がれる者は「王、祭司、預言者」です。
イエスは王であり、祭司でもあり、預言者です。
このような権威がメシアには与えられています。
百人隊長はこのようなイエスの権威を知っていたからこそ、イエスの口から発せられることばには力があることを信じることが出来たのです。
私たちも百人隊長のような信仰を持つためには、イエス様がどのようなお方か知る必要があります。
イエス様に与えられている権威がどれほど偉大なものであるか、私たちはもっともっと知る必要があります。
百人隊長はあえて自分がイエス様の元に行く事さえしませんでした。イエス様の元に別のしもべを遣わしてイエス様に癒しのお願いをさせたのです。
ただイエス様の口から発せられることばに権威があることを純粋に信じきっていたので、たとえイエス様が現場にいなかったとしても癒しは起こると信じていたのです。
信仰は目に見えないことを信じ、事が起きる前に行動に移すことです。私たちの信仰生活も神のことばをシンプルに信じて行動に移すことが必要です。
私たちの信仰が百人隊長のように大胆なものとなる為には、イエス様のことを深く知り、イエスに与えられている権威がどのようなものかを知る必要があります。
そのためには日々の祈りとみことばの生活が必要です。
祈りの中でイエス様の臨在を味わい、みことばを通してイエス様がどのようなお方であるか知ることになります。
毎日の生活の中で祈りとみことばが中心にあるならば、私たちの信仰は力強いものになって行きます。
既にイエス様を知っている人は、さらに深くイエス様を味わって行きましょう。
■A:考えてみよう
私たちの信仰の土台はどこに置いているでしょうか?
イエス様以外に土台としているものは無いでしょうか?
今一度私たちの心の中を点検してみましょう。
■P:祈り
イエス様、もっと深くあなたを味わいたいです。
私の心をあなただけにしてください。
力強い信仰を与えて下さい。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
【 あきひろ 】
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