■S:今日の聖書の言葉
レビ記4章5〜6節(使徒の働き4章)
★油注がれた祭司はその雄牛の血を取り、それを会見の天幕に持って入りなさい。
その祭司は指を血の中に浸し、主の前、すなわち聖所の垂れ幕の前に、その血を七たび振りかけなさい。
■O:今日のコラム
レビ記19章2節で「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」と主は言っておられるように、主は聖なるお方、きよいお方なので、私たちが主の御前に行き、主を礼拝するためには私たちも罪から清められていなくてはなりません。
イザヤ書59章2節で「あなたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」とありますが、罪は私たちと神様との間の障害となり、主との親しい関係の妨げとなります。
私たちが罪を悔い改め、きよめられる時に、神との障害物は取り除かれ、神との真の親しい関係へと入り、真の礼拝を捧げることが出来ます。
許されるためには、悔い改めが必要なのは、理解しやすいかも知れません。では、罪が「きよめられる」とは、どういうことでしょうか。
私たち人間には、アダムの時に入り込んでしまった“罪の性質”というものをもって生まれてきます。誰にも教わらなくても、親に反抗する心。自分のやりたいことを通そうとするわがままさ。自分中心に生きようとする性質。これらは、私たちが、もともと罪の性質を内側に持っていることをよく表わしています。
その、自分ではどうすることも出来ない“罪の性質”からきよめられるために、この箇所で主はモーセに「血を七たび振りかけなさい」と言われています。
この「血のそそぎ」は、のちの御子イエス・キリストの流される血潮の雛形です。「七」は完全数字です。イエス・キリストの血潮によってこそ、私たちは自分では決して洗い流すことの出来ない、罪の性質から完全にきよめられ、義とされるのです。
レビ記4章12節に記されていますが、捧げられた、いけにえの皮や残りの部分、汚物などは宿営の外の灰捨て場で焼かれ、捨てられました。これは、本来、罪人である私たちが行かなくてはならない場所であり、姿でした…
しかしながら、罪なき、もっとも聖い小羊なるイエス様が、私たちの身代わりとなり、このいけにえの汚物のように、宿営の外に捨てられたのです。
これは、イエス様の完全なへりくだりの姿であります。イエス様は、私たちの罪の身代わりとなり、宿営の外に捨てられることさえも、へりくだり受け入れて下さったのです…なんという愛でしょう。私たちのために、です。その愛に、感謝で涙が出ます。
ヘブル人への手紙13章11〜13節「動物の血は、罪のための供え物として、大祭司によって聖所の中まで持って行かれますが、からだは宿営の外で焼かれるからです。ですから、イエスもご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。」
私たちも、真の礼拝者となるために、日々罪を悔い改め、十字架で流された主イエスの血潮によって、きよめられることをさらに追い求め、キリストのへりくだりを身にまとい、主の御前に出ていきましょう。アーメン!
■A:考えてみよう
自分と聖なるお方とのへだたりになるものは、ないだろうか。
聖霊様に内側を探っていただき、悔い改めて、きよめられて、主との親密な関係をさらに求めていこう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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