■S:今日の聖書の言葉
マタイによる福音書10章25節 (ヨブ記12章)
★ 弟子がその師のようになれたら十分だし、しもべがその主人のようになれたら十分です。彼らは家長をベルゼブルと呼ぶくらいですから、ましてその家族の者のことは、何と呼ぶでしょう?
■O:今日のコラム
ある日、ふと思った。お父ちゃんの膝の上にずっといたい! 父ちゃんの御座の隣のイエス様の御座に座るより、父ちゃんの膝の上に座っていたい!!
そう思っていたら、ある映像が見えてきた。
その御座におられる父ちゃんがうちを膝からおろした!
そして、イエス様と一緒に歩けと。
イエス様、どこ歩いてるのかと見たら、空中?!?!
御座が天にあって、その床は透明らしく、下に地上が見えた。そこをなに気もなく歩くイエス様。その後について行けと父ちゃん…
私は一歩でも今いるとこから踏み出したら落ちるだろって思った。透明すぎるので、本当にそこに床があるのか、また道があるのかって思った。けど、そこを普通に歩いていくイエス様…
とにかく、イエス様の後について、イエス様が歩んでいる道をたどれば大丈夫って思い、踏み出そうとしている自分をみた。
この映像を通して、主は一つのことを悟らせた。
イエス様次元で歩むには、ただただ信仰が必要だと。
イエス様は、肉体としてはこの地を歩まれたが、実際、彼は天を歩まれていた。そして、イエス様のようになりたいのであれば、イエス様が歩んでいるように、歩んでいく必要がある。それは信仰の歩み、信仰をもって踏み出し歩み続けることであると、主は教えてくださいました。
マタイ10章は、イエス様が弟子たちを選び出し、町々に御国を運ぶ者として遣わす場面です。
そして、今日のことば。
イエス様が、弟子たちに、「弟子がその師のようになれたら十分」と言っています。
イエス様の願いは、私たちが彼の弟子であるのであれば、御自身のようになってほしいって事です。
その為には、信仰、それだけです。
また、イエス様は続けて「彼らは家長をベルゼブル…」と言っていますが、今まで、ここの意味がさっぱりでした。
がっ、今回、悟りました!
イエス様をサタンの長であるベルゼブルと呼んでいる人々は、イエスの弟子たちをも酷い呼び名をつけて呼ぶだろうってことです。
けど、ここで、イエス様は、師と弟子の関係ではなく、家族の関係で話しています。おもしろくないですか?
そうなんです。私達はイエス様にとって弟子でもあり、親しい愛する家族なのです。
なので、どんなに酷いことを言われても、イエス様はもっと酷いこと言われていることを思い出し、またイエス様に愛されている家族の一員であることを誇りに思っていきませんか?(*^^*)
■A:考えてみよう
とにかく祈りましょう(^o^) 私達の力ではイエス様の弟子になれないので。
■P:祈り
イエス様、私を親しい愛する家族の1人として見てくださっていることを心から感謝します。
また、私をあなたの弟子として任命してくださっていることも感謝します。
あなたのようになりたいです! 信仰をもって歩み続けたいです! 聖霊様、助けてください!
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 かよ 】
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ハレルヤ
主の御言葉の扉が開かれました。
主に感謝します。
そして かよさんが主の大いなる計画に用いられますように。
ハレルヤ
アーメン