■S:今日の聖書の言葉
エレミヤ書18章6節
★イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。ーーー主の御告げーーー見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。
■O:今日のコラム
聖書が示す神、天地万物を創造された神は、全能なる造り主です。一方、私たち人間は造られた存在です。その関係は、ちょうど陶器師と粘土のようであり、私たちの人生は主の御手の中にあります。(エレミヤ18:1~6)
けれども、主はすべての主権をお持ちだからといって、デタラメな、気まぐれな暴君ではありません。それどころか、どこまでも公正な、フェアなお方です。たとえ滅びに向かっていた者であっても、悔い改めて悪の道から立ち返るなら、主は禍を下そうとしていた計画を思い直す、と言われます。(エレミヤ18:7~11)
主は良いお方です。ハレルヤ!
さて、敬愛する私たちの牧師先生は常々「『良いクリスチャン』になろうとすることをやめ、『正直なクリスチャン』になりましょう」と言われます。これはとても大切なことだと思います。信仰生活を送る上で陥りやすい落とし穴のひとつが、この「良いクリスチャンになろうとすること」だからです。
勿論、御言葉に従って生きよう、と努力することは大事なことです。ですが、「彼は立派なクリスチャンだ」といった、ひとからの評価を意識し始めると、信仰生活が苦しくなってゆきます。ですから主の御前に出て、正直に自分の心を打ち明けることが大切です。今朝の箇所でも、エレミヤは正直に(正直すぎるほどに!)自分の気持ちを主に申し上げています。(エレミヤ18:19~23)
ところで、正直に自分の心を主に申し上げたあとで、大切なことがあります。それは、主からの応答に耳を傾けることです。
エレミヤ書を振り返ってみましょう。エレミヤは1章の最初から、正直に自分の気持ちを主に申し上げます。そして主も、その度ごとに、エレミヤに答えられました。
彼が預言者として召されたとき、「私は、まだ若すぎます」と正直に言います。しかし主は「まだ若いと言うな」とエレミヤの言葉を退け、御手を伸ばして彼の口に触れ(主の言葉を彼の口に入れ)、そして彼を遣わします。(エレミヤ1:4~10)
ある時エレミヤは、「なぜ、悪者の道が栄え、裏切者が安らかでいるのですか?」と主に問います。(エレミヤ12:1)
この背景には、エレミヤが郷里アナトテの人々から命を狙われたことがあるわけですが、これに対する主の答えは、こうです。
「あなたは徒歩の人たちと走っても疲れるのに、どうして騎馬の人と競争できよう。あなたは平穏な地で安心して過ごしているのに、どうしてヨルダンの密林で過ごせよう。」(エレミヤ12:5)
つまり、主はエレミヤに、「あなたの将来には更に大きな使命があり、待ち構えている艱難は更に大きなものである。にもかかわらず、徒歩の人と競争して疲れた、と言っているようでは、将来、騎馬の人と競争するときにはどうするつもりだ? 郷里の者たちがあなたの命を狙ったことぐらいで弱音を吐くな。しっかりしろ!」と叱咤激励しているのです。
またある時エレミヤは、預言者の務めの厳しさと苦難に堪えかねて、「なぜ母は私を産んだのか。自分は生まれて来ない方が良かった、、、」と嘆きます。
「ああ、悲しいことだ。私の母が私を産んだので、私は国中の争いの相手、けんかの相手となっている。私は貸したことも、借りたこともないのに、みな、私をのろっている。」(エレミヤ15:10)
しかし、これに対する主の答えは、こうです。
「もし、あなたが帰って来るなら、わたしはあなたを帰らせ、わたしの前に立たせよう。もし、あなたが、卑しいことではなく、尊いことを言うなら、あなたはわたしの口のようになる。」(エレミヤ15:19a)
、、、厳しいですね、、、つまり、「つまらないことを言うな」というわけです。けれども、これが父の愛です。
エレミヤは妻子を持つことも許されず(エレミヤ16:2)、ただ一人、主に反抗するイスラエルの民と偽預言者らとに対峙し、主の口として、警告を語り続けました。その大きな使命を全うするために、主は彼を厳しく訓練されたのです。けれども主は彼を厳しく扱うだけではありませんでした。主はエレミヤと愛の関係を持たれたのです。
エレミヤは言います。
「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」(エレミヤ15:16a)
彼にとって唯一の楽しみ、喜びは、主の御言葉でした。主との愛の交わりが彼を支えたのです。
陶器師なる主に取り扱われるとは、すなわち、正直に自分の心を主に打ち明けると同時に、主の御声に聴き従う歩みです。
私たちの内の「生まれながらの人」はわがままです。自己中心です。ですから主の訓練は当座は喜ばしいものとは思われません。(ヘブル12:11)
しかし、後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせて下さいます。ですから、喜んで、陶器師なる主の御手で、私自身を造り変えて頂きましょう。
■A:考えてみよう
どんなときも、主の御前では正直になろう。
と同時に、主には主のお考えがあることを心に留めよう。
私のわがままを押し通すのではなく、主の御声に耳を澄まし、御心に従うことに心を決めよう。
主は陶器師、私は粘土です。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
(追伸)
2019年2月から、月一回、このご奉仕に与りました。「受けるよりは与える方が幸いである」との主の御言葉は真実です。おかげで私自身が大変恵まれました。これからも共に主の御言葉に聴き従って参りましょう。お読み下さった皆様に心から感謝申し上げます。
【 よしかず 】
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主に護られ生かされていることに感謝します。[主の前に正直な者になる]ことが大切である。の教えを感謝します。主の前で自分を飾っても何の意味もないってことが良く分かりました。主のみ声に耳を澄まして活きたいと思います。わがまま自分との戦いです。が主に委ね、祈って行くなら良き実を実らせて下さるでしょう‼️😀