■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの手紙第一2章28節
★そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。
■O:今日のコラム
使徒ヨハネが書いた書簡(福音書、手紙、黙示録)の中に、よく見られる表現があります。それが、今日の聖句にもある「とどまる」という言葉です。
ヨハネはこれらの書簡を通して常に、「永遠のいのちとはどこにあるのか。何にあって、人は永遠のいのちを持つことができるのか。」を伝えようとしているように感じます。彼が握っていた真理、また手紙を通して伝えようとしていたことは「永遠のいのちをもつとは、キリストのうちにどどまることによる。」ということでした。
では、「キリストのうちにとどまる」とはどういうことなのかを、ヨハネの書簡の中から明確にしていきたいと思います。
まずは6節で語られています。
「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(1ヨハネ2:6)
詳訳聖書では「キリストがふるまわれたように、同じ仕方でふるまう」と書かれています。つまり、キリストにとどまるとは、「キリストと同じように生きる」ということです。キリストはどのように生きたのでしょうか?キリストは御父に完全に従い通されました。キリストの生涯は御父への従順の生涯でした。
整理しましょう。キリストのうちにとどまる=キリストと同じように生きる=御父に従う
またイエス様も次のように、私たちに語りかけて下さっています。
「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。
もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。」(ヨハネ15:9,10)
『キリストのうちにとどまる』とは『神とそのみことばに従うこと』であり、神とみことばに従うことを通して、私たちは神の愛の中にとどまることができるのです。自分を「イエスが愛された弟子」(ヨハネ21:20)と記したことからも分かるように、使徒ヨハネはまさに神の愛の中にとどまっていた者ではないかと思います。
『神の教えに従うことによって、神の愛のうちにとどまる』とは、『神様の言いなりになれば、その見返りとして神からの恩恵を受ける』、というような冷たい関係ではありません。まったくその正反対です。
父なる神の愛の偉大さ、広さ、長さ、高さ、深さを知るからこそ、その愛に応えたいという願いがおき、その御方の御心と御教えの通りに生きていきたいという願いがおき、主のお心を喜ばせることに喜びが湧くようになるのです。それこそがまさに、神の愛のうちにとどまる生き方です。
ヨハネは福音書の中で、「神の子」としてのイエス様を記しました。彼は、父なる神と御子イエスのその愛の関係をずっと見ていたのです。そして、彼自身も「神の子」として、父なる神の愛を受け、その愛に応え、その愛の中にとどまった者でした。
■A:考えてみよう
御子キリストが歩まれたように歩むことができるために、また、みことばに従いキリストのうちにとどまるために、今日、父なる神の愛を更に知ることを求めていきましょう。
父なる神の愛はすでに惜しみなく注がれています。ただ、私たちの目が暗く、それを悟ることが出来ていないだけなのです。
御霊の助けをいただき、御言葉のあらいきよめによって目の覆いを取りのぞいていただき、すでに溢れるほどに注がれている御父の愛を見ることができますように。悟ることができますように。そして、御父の愛を悟るなら、その愛に存分に応える生き方をしていくことができますように。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 みちる 】
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みちる様
主の御名を賛美します。
「キリストのうちにとどまる」には、みことばに従うことだと思います。
しかし、わかっていても罪を犯すとき、肉の内に潜む罪に引きずられているのを感じます。
聖霊に満たされて、聖霊の火によって罪がことごとく焼き尽くされるように祈ろうと思います。
本日のメッセージを感謝します。