■S:今日の聖書の言葉
テサロニケ人への手紙第一2章4~8節
★私たちは神に認められて福音をゆだねられた者ですから、それにふさわしく、人を喜ばせようとしてではなく、私たちの心をお調べになる神を喜ばせようとして語るのです。
ご存じのとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、むさぼりの口実を設けたりしたことはありません。神がそのことの証人です。
また、キリストの使徒たちとして権威を主張することもできたのですが、私たちは、あなたがたからも、ほかの人々からも、人からの名誉を受けようとはしませんでした。
それどころか、あなたがたの間で、母がその子どもたちを養い育てるように、優しくふるまいました。
このようにあなたがたを思う心から、ただ神の福音だけではなく、私たち自身のいのちまでも、喜んであなたがたに与えたいと思ったのです。なぜなら、あなたがたは私たちの愛する者となったからです。
■O:今日のコラム
パウロは、使徒としてテサロニケ教会を建て上げていきました。しかしその時に自分の利益、自分の名誉を受けようとはしなかったのです。それどころか母が子どもを養い育てるように、ひたすら与えて愛したのです。パウロはいのちさえも喜んで与えたいと思ったと告白しています。そして実際にいのちを与えて下さったのがイエス様です!
そのような愛し方が親が子どもを愛する愛し方です。何か見返りを求めることなく、むしろ本人から返ってこないことを百も承知で与える愛には大きな報いがあります。無差別に与えてはいけません。イエス様も「子どもたちのパンを子犬に与えるのは良くありません」と語っておられます。また聖なるものを犬に与えてはならないとも、豚の前に真珠を投げてはならないともあります。その上で適切に主が与えることを願っているその人に、必要なものを与えることには大きな報いがあります。
例えば赦しです。被害者しか加害者を赦す権限がないことがあります。赦したとしても何の感謝もお礼もない場合がたくさんあるでしょう。人に親切にしても感謝してくれない人もいるでしょう。挨拶しても挨拶し返してくれない人もいるでしょう。世の中ではそういう人には親切しなくなり、挨拶しなくなっていくものです。
しかしキリストにあって成人となる者である私たちは、返ってこないことを百も承知で与え続けましょう。返ってこないことを承知でその人に必要な物を与え続ける愛は母の愛、キリストにある成人の愛です。イエス様がそのようにされましたから。
そしてこの世にあって報いを受け取れない愛こそは、天において報いを豊かに受け取る愛です。よく「報いを願って与えるのは不純だ」と言われることがあります。しかし私は天での報いを大いに期待します。それは種蒔きなのです。報い、収穫、実りを期待しないで種蒔きする人はいません。むしろ報いを大いに期待するからこそ多くを蒔くのです。私たちの天での報いはイエス様そのものです。
「では、私にどんな報いがあるのでしょう。それは、福音を宣べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。」(1コリント9:18)
■A:考えてみよう
親切を与えても水をスポンジに注ぐように感じることがあります。赦しを与えても何も感謝されないことがあります。しかしそんな中で御父が報いてくださることに期待しましょう。それこそはキリスト者として大人の愛であることを覚えましょう。お返しがなくても恵みを与え、励ましを与え、慰めを与え続けましょう。
■P:祈り
主よ。あなたは受けるより与える方が幸いです、と教えて下さっていることを感謝いたします。その幸いを豊かに得させてください。与え続けることに心が弱る時には聖霊様が私に励ましを与えてくださいますように。私が受けている物の究極の目的は与えるためであることを信じ感謝いたします。適切な人に適切なものを与えることができる知恵をお与えください。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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