■S:今日の聖書の言葉
コリント人への手紙第一1章18節
★十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
■O:今日のコラム
聖書の中で主の御業と奇跡を経験した人々は皆、主に対してシンプルな信仰を持った人々でした。しかし、私たちの中には難しい事の方に価値があると思ってしまう性質が存在しています。
例えばナアマン将軍は預言者エリシャから「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」という指示を受けます。この時、ナアマン将軍は出された指示があまりにもシンプルな方法だったので怒って去ってしまいました。しかし、彼のしもべたちが説得してこのように言いました。
「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」(2列王記5:13)
この説得の内容を見ても人はシンプルな方法ではなく、難しく複雑な方法に価値を見出そうとする性質があることがわかります。ここでナアマン将軍がしもべの説得を受け入れ、エリシャの指示にシンプルに応答したナアマンは主の奇跡を経験し、ツァラアトからのきよめと回復を受け取りました。聖書にはこう記されています。
「そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。」(2列王記5:14)
聖書の中でツァラアトからの回復に対しては「癒し」という言葉ではなく「きよめ」という言葉が使われています。なぜならツァラアトは罪の性質と密接な関わりを持つ病だったからです。ツァラアトの恐ろしいのは体の神経や細胞が壊死し、痛みに対しても無感覚となり、体の様々な部分が白く腐敗して死んで行くことでした。私たちの罪の性質もこのツァラアトと同じように、神の御心に対して無感覚となり、罪の腐敗が魂と肉体に広がり、永遠の死へと向かって行くこととなります。
「彼らは、その知性において暗くなり、彼らのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神のいのちから遠く離れています。道徳的に無感覚となった彼らは、好色に身をゆだねて、あらゆる不潔な行ないをむさぼるようになっています。」(エペソ4:18~19)
アナアマン将軍がエリシャの指示にシンプルに従ってヨルダン川に身を洗ってツァラアトのきよめを受けたように、私たちもイエス・キリストの十字架の贖いをシンプルに信じてその血により洗われる時に罪からのきよめを受けることが出来ます。しかし、それがあまりにもシンプルであるが故に多くの人にとっては愚かなことに感じ信じられないのです。そこで、「もっと熱心な宗教的行為がなければ罪の赦しは無い。」と思い、複雑で律法的な生き方を追求し、自分を罪に定め、罪責感をいつも抱え、多くのペナルティを自分に課すことによってそこに自分の義ときよさを得ようとしてしまいます。
しかし、義ときよさは私たちの熱意から生み出されるものではなく、イエス・キリストの十字架の熱意によってのみ私たちに与えられるものなのです。このイエス・キリストの十字架の偉大な恵みの救いを知る時、第一コリント1章の最後に記されているように。私たちはイエス様だけを誇りとするようになるのです。
「これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、『誇る者は主にあって誇れ。』と書かれているとおりになるためです。」(1コリント1:29~31)
今日シンプルな信仰を持ってイエス様の御前に進み行き、十字架による罪からの贖いと解放を受け取り、その偉大な主の恵みを覚えて一日のあらゆる時に感謝を捧げましょう。主イエスの元に全ての罪の赦し、義と聖めと贖いの力があります。
「すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。『主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。』イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ。』と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。」(マタイの福音書8:2~3)
■A:考えてみよう
第一コリント1章を朗読し、主イエス・キリストの十字架の贖いを自分の信仰として告白し、祈る時間を持ちましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しんご 】
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