■S:今日の聖書の言葉
今日の聖書の言葉
詩篇11篇1,3節
★主に私は身を避ける。どうして、あなたたちは私のたましいに言うのか。「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。
…拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」
■O:今日のコラム
昨日の5月20日、春に続いて夏の高校野球が中止というニュースが流れました。3年生の高校球児は夢が絶たれた悔しさとやりきれなさで涙する人もいました。本当に残念です。彼らは甲子園を目標にずっと頑張って来ました。彼らの拠り所が奪われたような状態です。一刻も早くいつもの生活に戻れるよう祈ります。
さて、今日の聖書箇所では、敵がダビデに向かって「拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」と罵っている場面が登場します。新共同訳聖書の同じ箇所を見ると、このように書かれていました。
「世の秩序が覆っているのに、主に従う人に何ができようか。」
つまり、「神様なんか信じててなんになるんだよ」というようなニュアンスに近いと思います。社会生活を営む中で、みなさんも多かれ少なかれこういう状況に遭遇したことが有るのではないでしょうか。
悔しい事実ですが、今現在、世の中の君と言われるのはサタンです。それは私たちに強く影響をもたらします。(しかし、更にその上には神様の統治があります。)
まだイエス様に出会っていない人にとっては、まるで曇り空を見上げているような状況でしょう。目に見えるのは黒く分厚い雲ですが、その上には晴天の空が広がっています。しかし、実際に目に見えるのは黒く分厚い雲です。
人は目に見えるものに強く影響を受けます。ですから、神様を知らない人々は、人間が作り出したこの世のシステムや制度、法などを拠り所としてしまいます。
もちろん、ある程度この世のシステムに順応する必要はあります。イエス様も証しとして税金を納めるため、魚の口からすスタテル1枚を弟子たちに与えました。(マタイ17:27)
しかし、あまりにもこの世の情報やシステムに信頼を置きすぎるのも問題です。そうするなら、人は「自分こそが正しい」という考えになってしまいます。
突然話が飛躍するかもしれませんが、どうして世界から戦争が無くならないのだと思いますか。戦争は「正義 v.s. 悪」の戦いです。本当でしょうか?その実「正義 v.s. 正義」の戦いです。「自分こそが正しい」とお互いが主張して戦争になってしまいます。この世の君の戦略です。
■A:考えてみよう
どうすればこのような「自分こそが正しい」という罠から逃れることができるのでしょうか。それは、「自分は正しくないかもしれない」という意識を持つことです。正しいお方はただ一人、イエス様以外にありません。この認識を持つことが大切です。
それであっても、聖書の歴史を見るなら拠り所としていた神様に失望する場面を見ます。
・エデンの園での親密な関係を持っていた神様との断絶
・イスラエルを本当に幸せにする王に対して
・旧約で預言されている救い主の到来(民は政治的な救い主を期待していた)
・救い主として来られたイエス・キリストの十字架の死
・イエス・キリストの再臨がすぐに来ると思ってまだ来られない
数え上げればきりがありませんが、このようなことに一喜一憂するのが信仰でしょうか?
特に、今日はキリスト教の暦の上ではイエス様が復活後、昇天された日として覚えられています。一度はだめかと思い諦めかけていた弟子たちに現れたイエス様は、彼らにどれほどの喜びと希望をもたらしたでしょうか。しかし、イエス様は突然彼らの目の前で天に昇って行かれました。
「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。 そして、こう言った。『ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。』」(使徒の働き1:9-11)
弟子たちの失望はどれほどだったでしょうか。彼らの拠り所が取り去られました。これで終わりだったでしょうか。そんなことはありません。この事を経て、偉大なる聖霊様の注ぎがあり、弟子たちが力ある働きをしていきます。
シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴが言ったように「しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」という信仰です。理由がわからなくても、理解できなくても、なんの見返りが無いように思えてもその方を拠り所として信頼し続けるのです。
主はどのようなお方ですか?主はいつも良いお方ではありませんか。世界中、どこを探しても安全な場所が見つけられない今の世の中に於いて、最も安心・安全な拠り所は私たちの救いの岩、イエス・キリスト以外ありません。
状況、環境また、私たちの感情によらず、最後までこのお方を拠り所として生きていきましょう。そして、このパウロが書いたみことばを黙想して、自分のものとして受け取りましょう。
「ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。」(2コリント 1:9-10)
■P:祈り
今日も私を愛してくださり、この地にいのちをつなぎとめてくださっている天のお父さんに心から感謝します。
主よ、わたしの拠り所はどこにあるでしょうか。私の意識している部分、そして無意識の部分にまで触れ、それらを明らかにしてください。そして、みことばの剣によって正しい部分と正しくない部分を切り分けてください。
このような時代にあって、自分の正義を持つことがあませんよう、誘惑から私を守ってください。
世の中の情報や人は「神を信じて何になるのか」というかもしれません。しかし、私はその様なこの世の声を聞きません。私の耳はかすかにひびく主の御声を聴く耳とされることを宣言します。
イエス様がペテロに信仰が無くならないように祈られたように、私の信仰が無くならないように天からとりなしてください。
私はこの先どんな事が起ころうとも、変わらない良いお方である主を私の拠り所とします。
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しゅん 】
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