■S:今日の聖書の言葉
創世記33章3節
★ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。
■O:今日のコラム
創世記32章において、今までのヤコブの信仰の歩みを決定的に変えたペヌエルでの出来事がありました。ペヌエルとは「神の御顔」という意味があり、神と顔と顔を合わせて格闘した結果、ヤコブのもものつがいは打たれました。これは腰が外されたのであり、腰は聖書では人間の自己中心性を意味します。
アダムとエバは善悪の木の実を食べ、自分が人生の中心となり、罪が人を支配するようになった時、最初にしたのは自分たちの腰のおおいを作ることでした。このことからも腰は人間の罪の性質をあらわし、自己中心性を意味するものであることがわかります。
ヤコブがペヌエルで腰(もものつがい)を打たれたことは、ヤコブの自己中心性が主により砕かれたことを意味します。その結果、彼はもはやヤコブ(奪う者、だます者)ではなくイスラエル(神が統治した者)と名前が変えられたのです。
イスラエルは「神と戦う者」という意味でとらえられることが多いですが、ある聖書研究者は「神と共に戦い、自分に勝った者」という意味を述べています。神と顔と顔を合わせるペヌエルの体験を通してヤコブは、主にあって自分の自我に打ち勝ったのでした。
ヤコブが変えられた結果が、今日の箇所に記されています。ペヌエル以前の彼には狡猾な部分があり、兄エサウとの再会を恐れ、自分の家畜や持ち物を先に贈り物として行かせました。さらに自分の家族さえも前を行かせ、自分は一人後ろに残ったのです。つまり全てのものを失っても、自分の命だけは守ることが出来るようにしたのでした。
しかし、ペヌエルでの経験の後は、「ヤコブ自身が、彼らの先に立って進んだ。」と記されています。自己中心が砕かれた結果、自分がこの問題の全責任を負うようになったのです。それはまさに、後にこのイスラエルの子孫からキリストがお生まれになり、全人類の罪の責任を背負って、自ら進んで十字架にかかられる姿と言えます。
主イエスは十字架の上で「父よ。彼らの罪を赦したまえ」と言われ、人々の罪の責任を背負われたのです。キリストにあって私たちも自己中心が砕かれる時、そのように生きることが出来ます。
「主よ。あの人を変えて下さい。」「悪いのはあの人です。」といつも問題を外に見るのではなく、「主よ。この事を通して私を変えて下さい。」「この問題を解決するために、私にへりくだりを与え、また私をとりなす者として用いて下さい。」と。
旧約、新約の聖書全体を通して、主は神の国の責任を背負う者たちを探し求めておられます。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言う主の声を聞いた時、イザヤは「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」と答えました。(イザヤ書6:8)
ヤコブもイザヤもペテロもパウロも、その他聖書に登場する多くの聖徒たちが、神の国の責任を負う時にまず、自分の罪と自己中心と自我が主によって取り扱われていることが分かります。今日も、そして日々、キリストの十字架を背負い、御霊により父なる神と顔と顔を合わせて交わり、自分の自己中心と自我が打ち砕かれるペヌエルの経験を求め続けてまいりましょう。
■A:考えてみよう
詩篇24篇には主の御顔を慕い求める人々、ヤコブがどのようなものであるかが具体的に記されています。今日、詩篇24篇を朗読して主の御顔を慕い求めて生きる歩みが出来るように祈り求めましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しんご 】
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