■S:今日の聖書の言葉
テモテへの手紙第二4章8節
★今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
■O:今日のコラム
ここに私たちが朽ちない義の栄冠を受け取るための条件が書かれています。
オリンピックで受ける栄冠は一握りの勝者に与えられますが、私たちの信仰のレースでは、全員がこの栄冠にあずかることが可能です。その条件は主の現れを慕っている者であり続けることです。つまり再臨の主を待ち望んでいることです。ここで「現れ」(エピファネア)と訳される語は(2テサロニケ2:8)では、来臨の「輝き」(エピファネア)と訳される語です。
私たちにとって主の再臨は、世の困難から逃れることが最大のテーマなのではなく、主を愛するが故に完全な形でお会いしたいという切なる願いです。だから慕っているという語は愛するという語、アガパオーが使われています。
主の再臨を迎える準備は進んでいるでしょうか?主の来られる備えをせよ、と語られている私たちは、その準備をしていきましょう。それは御言葉を語られ、教えられ責められ、戒められ、勧められながら、語られた御言葉と自分が一つになっていくことが必要です。その数節前にこうあるからです。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(2テモテ4:2)
信仰の道は修行ではない、という言葉が語られるのを聞いたことがありますが、信仰の道に鍛錬は必要です。
「俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。」(1テモテ4:7)
「私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。」(1テモテ4:13)
もちろん鍛錬だけではなく、憩いや交わりも必要です。神の家にはその全てが揃っているべきです。どの家庭でも父母の教育や訓戒だけではなく、憩いも交わりも揃っているのですから。
主の再臨を待ち望むなら、死後に裁きを受けることを私たちは知っていなければなりません。そのために、この地上にある内に取り扱われるべき肉の性質を取り扱っていただくことは重要なことです。どれだけ主の取り扱いを先送りにしても最後にはジャッジされるのですから逃れる術はありません。だから(2テモテ4:2)の前の1節にはこうあります。
「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。」(2テモテ4:1)
私たちの人生の目的はいかに困難を避けるか?ではありません。であるならば生まれて来なければ一番良いことになります。そうしたら苦しみに一切会わないのですから。しかし、私たちの願いは困難を味わってでも御言葉であられるイエス様と一つにされることです。主と共に住まい、もはや自分の働きの全てを終え、主の麗しさを仰ぎ見、思いにふけることがただ一つの願いです。詩篇にこうあります。
「私の神、主よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正があるのなら、
もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら、
敵に私を追わせ、追いつかせ、私のいのちを地に踏みにじらせてください。私のたましいをちりの中にとどまらせてください。セラ」(詩篇7:3~5)
ここにあるのは、「どうぞ私を正しくお裁きください。私に不正があるならどうぞ取り扱ってください。」という砕かれた心です。砕かれた心は、主の裁きに委ねきった心です。
「私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。」(詩篇119:20)
主の再臨を待ち望むなら、砕かれた心を持つことは重要なことです。
■A:考えてみよう
再臨の主を待ち望む者となりましょう。詩篇7:3~5、詩篇119:20を宣言しましょう。
■P:祈り
「私の神、主よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正があるのなら、
もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら、
敵に私を追わせ、追いつかせ、私のいのちを地に踏みにじらせてください。私のたましいをちりの中にとどまらせてください。セラ」(詩篇7:3~5)「私のたましいは、いつもあなたのさばきを慕い、砕かれています。」(詩篇119:20)
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 まじまこ 】
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