■S:今日の聖書の言葉
マタイによる福音書3章11節

★私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。

■O:今日のコラム
今日の箇所では、バプテスマのヨハネが3種類のバプテスマについて言及しています。水のバプテスマ、聖霊のバプテスマ、火のバプテスマです。この3つのバプテスマとはなんでしょうか。

はじめに結論を言います。これらは、ヘブル6章2節に書かれている、きよめの洗いのことを指していると思います。

この「洗い」は原語では複数形のバプテスマが使われています。そして、複数形のバプテスマはこの箇所以外には出てきません。つまり、この3つのバプテスマが意味していることは、きよめの3つの段階です。そして、繰り返し経験するものです。私たちは、水、聖霊様、火によってきよめられていきます。

まず、水のバプテスマは死、葬りという段階です。これはパウロが明確に語っていることです。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)

水のバプテスマは私たちが自分自身に死ぬことの宣誓です。ペテロはこれを、「正しい良心の神への誓い」だと言っています(1ペテロ3章21節参照)。そして、私たちが死ぬなら、御父の栄光であるよみがえりの力は、聖霊様を通して私たちにも注がれます(ローマ8章11節参照)。これが聖霊のバプテスマです。イエス様が水のバプテスマを受けられたとき、神の御霊が臨みました。

それでは、聖霊のバプテスマを受けたあとの歩み、パウロの言葉を借りるなら、いのちにある新しい歩みとは、どのような歩みでしょうか。勝利に満ち溢れ、祝福と繁栄が流れ出るような歩みでしょうか。もちろんそうです。しかし私たちの想像とは違うものかもしれません。御霊は私たちを荒野へと導きます。イエス様も御霊に導かれて、試みを受けるために、荒野へ上っていかれました。

マルコの福音書の同じ箇所を見るならば、「御霊に追いやられた」と書いてあります。この荒野の段階が火のバプテスマです。

御霊は私たちを荒野、試みへと導かれます。様々な困難、誘惑の中にあって、それでも主を選び取るかどうか。主に信頼し続けるかどうかが試されます。「あなたは本当に死んだのか」という主からの問いかけだと言えるでしょう。戦いのないところに勝利はなく、圧迫のないところに解放はありません。勝利に満ち溢れるとは、言い換えるなら、戦いに満ち溢れているということでもある、ということを覚えたいと思います。

「そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」(1ペテロ1:6~7)

ここで注目したいのは、「聖霊と火とのバプテスマ」であるということです。この2つはセットです。火の中にあって、聖霊様が私たちの舌を捕らえ、言いようもない深いうめきによってとりなしてくださいます。そのとりなしによって、私たちは主につくことを選び取ることができることを感謝します。

そして、聖霊様が導く場所は、火のほかに、もう一つあります。それはイエス様の十字架です。

「父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。」(1ペテロ1:2)

ここに書かれている通り、私たちは御霊の聖め、すなわち聖霊のバプテスマによって、キリストに従う歩みと血の注ぎかけの中へと呼ばれています。

試練の中を通るとき私たちは、自分の中に主を喜ばせることができるものが、何一つないことを悟るようになります。しかし、この道は決して孤独な道ではありません。私たちを励まし、助けて、共に歩むために、イエス様ご自身が先にこの信仰の道を歩み切ってくださいました。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:15~16)

アーメン感謝します!イエス様が一緒に歩いてくださるので、私たちは必ずこの道を最後まで歩き切ることができます!そのことを掴むなら、罪と自己中心が示され、取り扱われるその道のりも、イエス様と共に歩む麗しい歩みへと変えられていきます。

この3つのきよめの段階を繰り返し通る中で、主に対する揺るがない信頼が培われていきます。この道に招かれたということは、いわばイエス様からのプロポーズです。

「わたしを信頼し、あなたの全てを私に委ねてほしい。あなたを命をかけて守り、導き、必ず幸せにしよう。わたしの全てはあなたのものだ。あなたもわたしに、あなたの全てを捧げてほしい。」

皆様は、今日も呼んでおられるイエス様のプロポーズに応答されますか?

悔い改めが自分を高めるための作業であってはいけません。バプテスマのヨハネは簡潔に、そして大胆に叫びます。

「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」

私たちが近づくのではありません。天の御国、すなわちイエス様の統治が私たちに近づいてきてくださいました。私たちは迎え入れることも、拒絶することもできます。私たちの内なる都、エルサレムへの道でイエス様が来られるのを妨げるのは、私たち自身です。

キリストの真実な愛に応える、花嫁の真実な心によって、主の来られる道を備えてまいりましょう。

■A:考えてみよう
毎日が死の連続でなければなりません。聖霊様は生かす御霊であり、そのよみがえりの力、デュナミスの力は死んだ者にこそ働くからです。

御霊はイエス様の栄光を現します(ヨハネの福音書16章14節参照)。イエス様の栄光とはなんでしょうか。ヨハネの福音書13章31節を読むと、「ユダが(裏切るために)出て行ったとき」、イエス様は栄光をお受けになったことがわかります。つまり、イエス様の栄光とは十字架そのものでした。

栄光から栄光へと変えらえれていく歩みは、十字架から十字架へと歩む歩みです。

1コリント15章36節で、蒔くこととは死ぬことである、ということが書かれていますが、44節では「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされる」と続きます。御霊に属するとは、言い換えるなら御霊に支配されている状態です。なぜなら、血肉のからだに死んでいるからです。そして50節で、「血肉のからだは御国を相続することができません」と結ばれます。

「主の聖徒たちの死は主の目に尊い。」(詩篇116:15)

私たちは自分に死んでいるでしょうか?

■P:祈り
主よ、私は自分で自分を殺すことはできません。それを御前に正直に認めます。助け主なる聖霊様、どうか助けてください。自分自身の十字架である、死ぬべき私の肉は、私には負いきれない重荷です。あなたの力によって私が死に、あなたの力によって私が生きるようにしてください。そうして、全ての栄光が主に返されますように。
今、主の約束(エレミヤ32:39~41)に信仰を置き、宣言します。私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられます。私は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに十字架につけます。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 けいしろう 】

カテゴリー: マナメール

オンライン献金はこちらから。

大きな額の献金は手数料の少ない口座振り込みをお勧めいたします。

オンラインサポートの手順

Comments are closed.

  • 最近のコメント

  • 新宿シャローム教会 大久保会堂


    〒169-0073 東京都新宿区百人町1-23-24アミューズ大久保ビル2F
    TEL 03-3371-7558
  • アーカイブ

  • カテゴリー