■S:今日の聖書の言葉
列王記第一17章10~14節

★彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいた。そこで、彼は彼女に声をかけて言った。「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
彼女が取りに行こうとすると、彼は彼女を呼んで言った。「一口のパンも持って来てください。」
彼女は答えた。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。
イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」

■O:今日のコラム
このストーリーを見ると「エリヤは、なんて人でなしなんだ」と思われるかも知れません。しかし、その結果は人には与えられない主の豊かな供給に、このやもめが預かることになりました!ハレルヤ!

私たちも、このやもめではないですが、生きていて困窮することがあります。もう自分の元気が底をついている。もう奮起することができない。そんな時です。一握りの体力、気力しか無いとしたら世の中ではそれを自分の楽しみのために使うでしょう。せめてもの慰めを得たいのですから気持ちは分かります。

しかしそれを主に捧げるなら、このやもめのように私たちには主の尽きることのない供給が注がれることを信じます。尽きることのない気力と十分な体力、この世のものとは違う喜びが私たちという器の中に湧き上がるようになっていくのです。走ってもたゆまず、歩いても疲れない歩みが主を待ち望む者に用意されています。

ここでやもめが作ったパン菓子とは、菓子パンではなく、聖書においては、捧げ物に使われる物なのです。祈る力も、祈りの言葉も湧いてこない状況があるでしょう。しかし、そのわずかな一握りの貴重な力を主に捧げるのです。ただ沈黙してひざまづくのが精一杯なら、それだけでも良いのです。捧げるならば、主が私たちの尽きることのない泉となり、世が与えるのとは違う喜びが溢れるようになるのです。そのことを信じますか?

もし自分のためにその一握りの力を使ってしまうなら、やもめの告白のように死んでしまうのです。

■A:考えてみよう
まず主を第一にして時間、気力を捧げましょう。落ち込む時、難しい時こそそのようにし、そうでない時もそのようにしましょう。必ず主の供給によって生きる味わいが与えられることを信じます。

■P:祈り
あなたが私の力となってください。あなたが私の尽きることのない泉となってください。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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