■S:今日の聖書の言葉
ペテロの手紙第一1章18~19節

★ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

■O:今日のコラム
シャローム!御国が来ますように!

「ご承知のように」と書かれていますので特別取り上げることではないと思いますが、マナメールを書くにあたって第一ペテロ1章を何度も読む中で、今日の箇所がもし「傷も汚れも少しだけある小羊のようなキリストの、尊い血によった」だったらどうなっていたんだろうか?と考えました。

まず、贖いは「完全な」贖いではなくなり、私たちの罪、咎、汚れの赦しも完全ではなく、傷も完全に癒やされない(きよめられない)ということになってしまいます。

「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 」(第一ペテロ2:24)

「キリストの打ち傷のゆえにいやされた」この約束が全ての癒やしやきよめが、「大まか癒やされた」と中途半端なものになってしまいます。

ローマ7章でパウロは自分のしたくないこと、憎むことを行っているのは私のうちに住む罪であり、救い出してくれるのはキリストであると書いていますが、救い出してくださる方が完全ではないので「救い出してくれるか分からない」というこれまた曖昧なことになります。

他にもあげたらキリがないですが、「もし、完全な罪の赦し、癒やし、きよめがない、贖われないとしたら、今頃私はどこにいて、どうなっていただろうか?」と考える中で自分が「完全な」血によって贖われたという偉大な恵みに感謝と涙が溢れます。

私は傷も汚れもないキリストの血によってむなしい生き方から贖われたからこそ、15~16節のようにきよくなりたいと切に願います。

「あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。それは、『わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。』と書いてあるからです。」(第一ペテロ1:15~16 )

しかし、どれだけ感謝し、涙が出ても相変わらず私の内には数え切れないほどの罪、汚れ、無駄なおしゃべりだったり、永遠の報いにつながらないことに時間を費やしたりする弱さがあります。ですが、ヘブル書10章22~23節の約束通り、自分の内に弱さがあったとしても、神様は変わらないお方であり、イエス様を信頼し、血潮の聖めを受け取り続ける中で私たちは主の似姿に変えられていく。そう信じてこの地上で神を求め歩むことができることが私の希望です。

「そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。
約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。」(ヘブル10:22~23)

■A:考えてみよう
黙示録7章にあるように、いつの日か私たちが神の前に立つとき、自分の衣をキリストの血で洗ったかを問われます。傷も汚れもない完全な贖いの血潮を受けて、聖さを受け取り続けましょう。

特に今週の土曜日(4月20日)からイスラエルでは過ぎ越しの祭りが始まります。過ぎ越しの時、家の門柱に血を塗った家は災いが過ぎ越したように、今のシーズン私たちも血潮の注ぎを受けて歩みたいと願います。

「そこで、私は、『主よ。あなたこそ、ご存じです。』と言った。すると、彼は私にこう言った。『彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。』」(黙示録7:14)

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まなくぼ 】

カテゴリー: マナメール

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