■S:今日の聖書の言葉
ローマ人への手紙9章2~3節

★私には大きな悲しみがあり、私の心には絶えず痛みがあります。もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。

■O:今日のコラム
「とりなし」には「背負いきれない重荷を代わりに背負う」という意味があります。今日の箇所でパウロは同胞のユダヤ人たちの救いを覚え、心に大きな痛みと悲しみを抱えてとりなしをしています。

このとりなしの中でパウロは「もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。」とまで言っています。

これはかつてモーセがイスラエルの為に主に願ったとりなしであり(出エジプト32章32節参照)、何よりもイエス様ご自身が十字架の上で私たちの罪を背負い「父よ。彼らをお赦しください。」と祈られた姿と同じです。

多くの場合私たちのとりなしは「主よ。あの人を変えて下さい。」「あの人を助けて下さい。」と人と自分をわけて祈ります。ひどい場合はとりなしているのに「主よ。あの人のここが問題です。」「あの人をさばいて下さい。」と、主の御前で告発をしてしまうことがあるかもしれません。

しかし、とりなしとは相手の痛みを自分が背負って主の御前に出ることです。それなので「主よ。あの人の痛みを自分の痛みとし、あの人の苦しみを自分の苦しみとし、あの人の罪を自分自身の悔い改めとしてあなたの御前に告白し、主の助けが与えられ、あわれみと恵みが注がれることを求めます。」と祈る時、その祈りは主の御前にとりなしとして受け入れられるのです。

先に挙げた「告発の祈り」をどれだけ続けても聞かれない理由は、それが主の御心では無く、サタンに属するものだからです。サタンは「兄弟たちの告発者、日夜彼らを神の御前で訴えている者」(黙示録12章10節参照)なのです。

しかし、主はとりなされる方であり、私たちのとりなしを喜ばれます。父なる神が聖書のあらゆる箇所でアブラハム、モーセ、ダビデ、ダニエル…その他多くの聖徒たちのとりなしを聞き入れられる姿が聖書には記されています。

イエス様は今もなお休むことなく神の右の座で私たちをとりなしておられる方です(ローマ8章24節、ヘブル7章25節参照)。

聖霊様は弱き私たちを助け、背負いきれない重荷を代わりに背負い、言葉にならない深いうめきを持って私たちの為にとりなしをして下さっているお方です(ローマ8:26~27)。

主の心はとりなすことです。これは、個人の領域から、職場、教会、街、国家に対しても同じ原則が当てはめられます。私たちは職場や教会に対してつぶやくことが多いでしょうか。それともとりなす者となっているでしょうか。街や国家に対しても否定的な出来事ばかりに目を留めてそれを口から出していないでしょうか。

主を知らず、主から遠く離れ、滅びに向かって進んで行く日本の同胞を覚え、私たちもパウロが抱いたような心の痛みと悲しみを持って日本の国家の救いの為にとりなし祈る者となりましょう。

■A:考えてみよう
今日、とりなしの祈りを実行しましょう。人々の重荷を自分の重荷とし、日本の国家の痛みを自分の悲しみとして抱き、主の御前に出てとりなし祈りましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 しんご 】

カテゴリー: マナメール

オンライン献金はこちらから。

大きな額の献金は手数料の少ない口座振り込みをお勧めいたします。

オンラインサポートの手順

Comments are closed.

  • 最近のコメント

  • 新宿シャローム教会 大久保会堂


    〒169-0073 東京都新宿区百人町1-23-24アミューズ大久保ビル2F
    TEL 03-3371-7558
  • アーカイブ

  • カテゴリー