■S:今日の聖書の言葉
ローマ人への手紙6章1~2節

★それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。

同15節

★それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。

■O:今日のコラム
主の恵みを利用して罪を正当化しようとする考え方は、使徒パウロによれば「絶対に」あってはなりません。恵みについて曲解してしまうとき、「恵みだから赦されている」、「罪と決別できない自分がいるけどしょうがない」等という極端に陥ってしまうことがあります。

かと思えば、頑なで変わりたくても変わろうとしない内側の性質や、繰り返される悪習慣に打ちのめされそうになり、自分を恥ずかしく思ったり、罪責感を持ち続けてしまう、終いには十字架を見上げることさえもできずもう自分には赦される価値がない等という、もう一方の極端に振れてしまうこともあります。

御霊による罪・義・さばきに対する気づきや、罪の刈り取りに対する正しい恐れを与えられることは不可欠ですが、放縦と自己卑下、どちらの行き過ぎた考え方も私たちの持つべきものではありません。

正直なところ、私自身も弱さと自己中心のゆえ、これら両極端の価値観に引き裂かれるような思いになることを幾度も経験しています。弱さを伴うからだを持っている間、一体どうしたらいいのでしょうか。全ての答え・解決は、神ご自身、そして十字架のイエス・キリスト以外にはありません。

「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(へブル4:15~16)

恵みに対して両極端の考え方になってしまうのではなく、主の御前にどこまでも「正直・真実・忠実」であろうと良心によって努めることが、私たちが取るべき態度、姿勢なのではないでしょうか。

自分には依然として不真実があったとしても、主は真実なお方であり、主イエスを信頼し見上げ、血潮を受け取るとき、主の似姿にきっと変えられる。キリストにあってそう信じ告白できることが、私たちの希望です。

主の惜しみない恵みによって私たちは強くされ、罪に縛られ抜け出すことができなかった奴隷の状態から、罪を犯さない自由を得、愛される神の子、御心に服従する義の奴隷、御国を受け継ぐに相応しい者へと日々変えられる過程に入れられました。その完成への道のりを全うさせてくださる方も主ご自身であることを信じます。

「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)

■A:考えてみよう
・以下のみことばを告白し、自分自身の心にあるそのままを取り繕うことなく正直に神様に打ち明け祈りましょう。

「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(へブル4:12~13)

・キリストとともに私たちの古い人が十字架につけられ、キリストのいのちにあって「新しい歩み」が実を結ぶことを切に願い求めましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ぺい 】

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