■S:今日の聖書の言葉
エレミヤ書18章4節
★陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。
■O:今日のコラム
聖書の中には、神様と私たちの関係があらゆる表現で書かれています。そのうちの一つが、今日の箇所にある「陶器師と陶器」の関係です。
エレミヤ18章で、神様はエレミヤに「陶器師の家に行きなさい」と命令を与えました。陶器師が粘土を壊し、練り、器を作り直す姿を見せて、神様はイスラエルの民をどのように扱おうとしておられるかを教えられます。
陶器師の手の中にある粘土は、陶器師の思いと願い、また意思と判断によって、どのような器になるかが決まり、陶器師の手によりその器は完成へと導かれていきます。神様とイスラエルの関係もそのようなものであることを、神様はエレミヤに示されます。
「もし悔い改めるなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す」(8節)と、神様はエレミヤを通してイスラエルの民に語っておられますが、神様は完全な義なる神様であると同時に、恵みと憐れみの神様です。義によれば裁かなければならないことも、悔い改めるのであればその裁きを思い直してくださる憐れみを持っておられるのです。
「あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。」(ヤコブ2:13)
どんなに滅びが確実のように思われても、たとえ希望を失う状況になっても、神様が介入されたら状況は変えられるのです。しかし、イスラエルの民を見ると分かるように、問題は、陶器である私たち、人間の心の「頑なさ」にあります。
「しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。」(ローマ9:20~21)
陶器である私たちは、絶えず、全ての主権者であり、陶器師である主に信頼し、へりくだり、このいのちの日の限り、砕かれ、練られ、火の中を通るという、器として完成されていくプロセスを通り、主の似姿に変えられ続け歩んでいきます。
ですが、今回この御言葉を通して主は「陶器である私」以上に「陶器師なる主の心」にフォーカスを充てることを導いてくださったように感じます。
エペソ2章10節には、私たちは「神の作品である」と書かれていますが、神様は私を愛をもって、目的をもって造り、使命を与えてくださいました。
神様が私の中にどれほどの価値を見出してくださっているでしょうか。私たち一人ひとりが、恵みによって救いを受けた者たちです。最高の父に造られ、恵みによって救われたので、自分を最高傑作品として認めることができるのです。だから今日も、神様の内側にいる自分を見て、自信を持つことができます。
私が持つ自信、それは、今日も私は神様に愛されている、という自信です。最高の神様が私を造ってくださったんだ、という自信です。自分を誇るのではなく、神様を誇るのです。
今日、陶器師なる主の心を知りたいと願います。陶器師なる主、私たちを愛の御手で造り変え、必ず完成へと導いてくださる天のお父さんが、どのようなお方であるかを今日知りたいと願います。
■A:考えてみよう
私がどのような状況であったとしても、主が私の主権者です。今日、陶器である私に注目することを一度脇に置き、陶器師なる主を見つめましょう。陶器師の心を求め、陶器師なる主がどのようなお方であるかを知り、このお方の完全な愛を、今日知ることができますように。
「しかし、主よ。今、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの手で造られたものです。」(イザヤ64:8)
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 あい 】
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