■S:今日の聖書の言葉
コリント人への手紙 第一 6章12節 (エゼキエル書24章)
★ すべてのことが私には許されたことです。しかし、すべてが益になるわけではありません。私にはすべてのことが許されています。しかし、私はどんなことにも支配されはしません。
■O:今日のコラム
先日、インターネットで安い靴は無いかと探していた時に、セールのお知らせばかりをしているサイトを見つけました。
「登録して頂くとお得な情報が満載です!」とのうたい文句に、何気なしにメールアドレスを登録してしまったら、その日から腹立たしいほど、怒涛のようにセールのお知らせメールが押し寄せるようになりました。
ちょっと見てみよう、とあまり深刻に思わずに自分のメールアドレスを簡単に登録してしまったことが、きっかけにこんなに面倒くさいことになるとは思わず、とても後悔しました。
今日の箇所で聖書は、はっきりとこう言っています。
「あなたがたは正しくない者は神の国を相続出来ないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫する者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することが出来ません。」 (コリント人への手紙 第一 6章9-10節)
私たちは恵みのゆえに、イエス様を主と告白し、罪許された者ですが、『許されているから、分かっているから』と、神様の喜ばれないことに対して、足がかりを作ってはいないでしょうか。
罪の意識無しに、何気につけたテレビの番組や何気なしに開いたインターネットの何かに引き込まれて何十分も何時間も時間をとられてしまったり、神様が一番だけど、これだけは手放したくない、これだけはやめたくないという何かを握っていたり、自分のルールや自分の方法を神様のルールや方法にシフトすることができなかったり。私はそんなことばかりです。
実際、自分の自由にやっていると思いつつも、結局は人はその「何かに」支配されているに過ぎません。
一度それを「主のために!」と決心して手放してみると、「主のため」と思って手放したにも関わらず、自分自身がそのことから自由になることを体験します。
「テレビやネットを手放したら、自由な時間、神様に思いをはせる時間が増えた」、「断食したら『食べないと体力が…』 という思いから自由になった」 というような証しを聞きます。
自分を捧げる思い、断腸の思いで手放してみると、実は自分がそれに支配されていたということに気付き、解放を体験するのです。
私たちを支配することが許されているのは、全知全能なる主、ただ1人です。私たちの心の王座は主のものです。
もちろん、自分1人の力で手放すことが困難なことも沢山あるでしょう。そんな時、私たちは助け手として与えられた聖霊様を切に求めましょう。主の御心にかなう私たちの切なる思いにこたえて聖霊様が助けて下さいます。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。」(コリント人への手紙 第一 6章20節)
■A:考えてみよう
ローマ人への手紙12章2節の中には 「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」 とあります。
これは実際は 「聖霊によって自分を変えられなさい。」 という意味です。いつも 「父なる神様に喜ばれることはなんだろうか。」 ということを思い巡らし、聖霊によって新しい者へと作り変えられていきましょう!
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
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ある意味恐ろしい考え方ですね。
神に支配されることが良くて、神以外に支配されることがダメだとか。
私はたとえ対象が神であろうと支配すること自体がダメだと思います。
コメント頂き、ありがとうございます。
そうですね、確かに恐ろしいですね。
イエスさまについていくということは、自分に死ぬことですから。
私たちは神の愛を受け、神を愛するために創造されました。
しかし、罪が神と人との隔ての壁となり、神との関係が絶たれてしまいました。
イエス様は十字架でその罪を背負い、死に、復活されました。
そう考えるなら、聖書は罪に死に、神様にあって生きると言えるでしょう。
罪の別の意味は自己中心です。
神に支配されるのが嫌だということは、いつまでも自分が中心でいたいと言うことにならないでしょうか。
聖書をよく読まれてください。祈って下さい。
創造主なる完全な神様に支配していただく人生がどれほど祝福に満ちたものであるかを体験することができますように。