■S:今日の聖書の言葉
使徒の働き16章25~26節
★真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。ところが突然、大地震が起こって、獄舎の土台が揺れ動き、たちまちとびらが全部あいて、みなの鎖が解けてしまった。
■O:今日のコラム
以前に何気ない会話の中で息子が「お父さん。パウロとシラスは牢獄の中で詩篇を賛美したんだよ。」と言っていて、「そういえば彼らが牢獄で賛美したのは知っているけど、その賛美した内容は気にしたことが無かった。」と、この聖書の箇所をもう一度思い巡らし、調べる機会となりました。
新改訳聖書には下に関連する御言葉の箇所が書かれており、この25節に記されている「賛美」という言葉を辿って行くとエペソ5章19節に行き着きます。そこには、
「詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。」(エペソ5:19)
と記されています。ここにある「詩」とは原文では「詩篇」を意味する言葉です。初代教会において礼拝の規定は定まっていませんでした。御霊の導きの中で礼拝が捧げられ、御言葉の朗読と解き明かしがなされ、パンを裂き、聖徒の交わりがもたれていました。
そんな初代教会に、礼拝のおこない方においてパウロが設けた規定と言えば「詩と賛美と霊の歌」によって礼拝することでした。パウロが「詩と賛美と霊の歌」を教会に教えたのであれば、彼自身が毎日そのように礼拝していたと考えるのが自然な流れです。それなので牢獄でパウロとシラスが捧げた祈りと賛美も「詩(詩篇)と賛美と霊の歌」によるものでした。
詩篇の礼拝は、教会史の中で失われてしまった貴重な霊的財産の一つです。旧約聖書のダビデの時代から初代教会にかけて詩篇による礼拝は莫大な霊的祝福を聖徒たちにもたらしました。この終わりの時代の教会にもう一度、詩篇の礼拝が回復することを願い、自らも毎日詩篇による礼拝を行っています。
私たちは目には見えずとも、この世に生きる中で霊的に覆われており、霊のことを理解することができません。その為、礼拝し、御言葉を朗読し、祈っても、深い領域にまで入って行くことが出来ないのです。しかし、詩篇による祈りと礼拝を持つ時、私たちの覆いは取り除けられ、主を見上げることが出来るようになるのです。
パウロとシラスが牢獄で、詩篇による礼拝を捧げた時、彼らを捕えていた鎖が解け、扉が開いたように、私たちも詩篇による礼拝をする内に、自分を捕えていた霊的な鎖が解け落ち、御言葉の扉が開くことを経験するようになります。
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」(詩篇119:130)
パウロとシラスが、試練と痛みと困難を味わい、暗闇の牢獄の中においてもこの様な礼拝を捧げることが出来たのは、日々の生活の中で詩篇による礼拝を捧げていた故でした。
私たちも今日、そして明日も、日々詩篇の朗読による礼拝を主の御前に捧げてまいりましょう。それは驚くべき霊的な恵みを現代の聖徒たちにもたらすものとなります。
■A:考えてみよう
詩篇を口に出して朗読し、御言葉に「アーメン。アーメン。」と信仰の応答をして、ひれ伏し主の御前に礼拝を捧げましょう。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しんご 】
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