■S:今日の聖書の言葉
マタイの福音書15章10~11節
★イエスは群衆を呼び寄せて言われた。「聞いて悟りなさい。口に入る物は人を汚しません。しかし、口から出るもの、これが人を汚します。」
18~19節
★しかし、口から出るものは、心から出て来ます。それは人を汚します。悪い考え、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、ののしりは心から出て来るからです。
■O:今日のコラム
福音書の中で主イエスとパリサイ人たちとの間に律法に対する論争が度々起こります。
パリサイ人や律法学者たちは、主イエスと弟子たちの行動を見張り、粗探しをし、少しでも彼らの教えの基準に達していないものがあるなら口実をもうけて主イエスを訴えました。
この15章では、弟子たちが手を洗わないでパンを食べたことに対する論争が起こります。パリサイ人や律法学者の起源は良い動機から始まりました。
特にバビロンからの帰還後、エルサレムと神殿を再建し、先祖たちの偶像礼拝と主の律法をないがしろにしたことを彼らは悔い改め、律法の教師エズラを中心にユダヤに御言葉が回復しました。彼らはもう二度と同じようにエルサレムを失い、他国に寄留者として散らされることの無い様に熱心に律法を守ることを決意し、律法を厳守するための生活基準をもうけ、613からなる律法を守り行おうと努力をしました。
その動機は主に対する熱心さと、悔い改めの心から始まった素晴らしいものでしたが、それから約400年の時を経て主イエスの時代には、パリサイ人たちは律法の文字にとらわれ、その中にある主の心とあわれみ、本質を完全に見失っていました。それ故に主イエスはイザヤ書を引用して、
「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」(マタイ15:8~9)
と言われています。またパウロもこう言っています。
「私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。」(ローマ10:2~3)
私たちは主の御言葉を守り、その教えに従おうと熱心になることはとても素晴らしいことです。しかし、主は私たちが何を達成したかではなく、絶えず私たちの心を見ておられます。
パリサイ人は自分の生き方に自信を持ち、他人から見ても立派で正しい生き方をしているように見えました。しかし、主イエスが彼らの心を見る時、その内側は、悪い考えと、汚れでいっぱいになっていたのです。
私たちの心を見張り、御言葉をもって人を裁くのではなく、自分の内なる人が不義から洗われ、心の目から覆いが取り除かれることが大切です。
その時、御言葉の文字では無く、その中にある神の心、御言葉の本質が見えてくるようになります。
■A:考えてみよう
御言葉を朗読して、ひれ伏し祈る時間を持ちましょう。
聖霊様の助けを受け、日々、心の目がはっきりと見えるようになりますように。
■P:祈り
イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。
【 しんご 】
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