■S:今日の聖書の言葉
創世記43章8~9節

★ユダは父イスラエルに言った。「あの子を私といっしょにやらせてください。私たちは出かけて行きます。そうすれば、あなたも私たちも、そして私たちの子どもたちも生きながらえて死なないでしょう。
私自身が彼の保証人となります。私に責任を負わせてください。万一、彼をあなたのもとに連れ戻さず、あなたの前に彼を立たせなかったら、私は一生あなたに対して罪ある者となります。

■O:今日のコラム
主は「はい」は「はい」、「いいえ」は「いいえ」とだけ言いなさい。と仰せられます。私たちの口にする一切の無駄な言葉が天において裁かれる材料になっていきます。

では、何も告白しないのが良いのか?というとそんなことはありません。積極的に信仰の告白、御言葉の告白をし、この口から恵み、励ましがあふれますように! 
 
この口の告白、自分に与えられた御言葉の告白を用いて主は、御霊により、心の板に御言葉を刻んでくださいます。いのちの水の川が流れ始め、感情や考え方が癒され、私たちの周りの霊的な空気をも変えられていきます。
 
自分に語られた御言葉を口ずさみ、思いめぐらすときに私たちは、その御言葉を実行することに対する情熱が増し加わっていきます。また、その御言葉を全うできないでいる自分を悔い改めさせられていきます。そうして自分に語られた御言葉が自分の重荷(使命)となるのです。このときのユダがそうでした。

エズラ記においてエズラも、語った自分の信仰の告白ゆえに重荷を負っていきました。これはエズラがバビロンを出て行くときの記事です。

「そこで、私はその所、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。私たちは、かつて王に、『私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る』と言っていたからである。」(エズラ8:21~22)

 
エズラは、主の御言葉を告白するが故に、実行する重荷を負ったと言えるのではないでしょうか?ユダも今日の聖句の告白のゆえにそれを行う情熱、使命感、重荷を負ったのです。

「というのは、このしもべは私の父に、『もし私があの子をあなたのところに連れ戻さなかったら、私は永久にあなたに対して罪ある者となります』と言って、あの子の保証をしているのです。ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください。」(創世記44:32~33)

こうしてユダは、父のために自分を犠牲にして愛を表すことになったのです。これはイエス様の十字架の愛です。
 
私たちも、重荷となるまで御言葉の告白をしましょう!いいえ、実行するまで続けましょう!御言葉を口ずさみ、思いめぐらすなら時が来ると実がなるのです。自分の十字架が全うされることは、イエス様と一つになることです。

■A:考えてみよう
自分に語られた御言葉を昼に夜に口ずさみ、思いめぐらしましょう。そうして私たちの肩に重荷が乗せられます。それは自分の負うべき十字架であり、主がともに担ってくださるくびきです。主にあって、主とともに、それは成し遂げられるのです。

■P:祈り
主よ。どうぞあなたの御心を成し遂げてください。私が地上ですべきことをなし終えて全き安息の中に入ることができますように。そのようにして主の家に主とともに住み、あなたの麗しさを仰ぎ見、思いにふけることができるようにさせてください。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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