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■S:今日の聖書の言葉
ヨハネの福音書11章4節

★イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

■O:今日のコラム
今日の箇所は有名なラザロの復活の箇所です。ラザロの死には目的がありました。御言葉を見ると、それが「神の栄光のため」であることがわかります。ラザロは病で苦しみ死にました。墓に葬られ、そこに4日間もいました。

しかし、イエス様はラザロを復活させました。彼の復活によって多くの人がイエスを信じ、神の栄光が現れていきました。ラザロは「死と葬りと復活」を経験したので神の栄光を現すことができたのです。彼の身をもって、彼が今復活して生きているという事実をもって神の栄光を現すことができたのです。

私たちクリスチャンも死ななければ神の栄光を現すことはできません。クリスチャンはバプテスマを通して「死と葬りと復活」を経験します。もはや、自分が生きているのではなく、イエス様が私たちの内に生きておられるのです。イエス様が私たちの内に生きているのならば神の栄光を現すことができます。

ラザロは復活しましたが、それは永遠の命ではありません。また寿命が尽きると死んでしまいました。ラザロの復活の出来事は、これから起こるイエス様の十字架の型です。

イエス様は公生涯の中で、数多くのしるしを成されました。カナの婚礼の水をぶどう酒に変える奇跡から始まり、最後のしるしとしてラザロの復活があります。

全てのしるしを通して、神の栄光が現れ、多くの人々がイエスがメシアであると信じるようになりました。その中でもラザロの復活は影響力が大きく、多くの人々がイエスを信じるようになりました。そのことによって、祭司長、パリサイ人のねたみが頂点に達し、イエス様を殺す計画を具体的に立てることになりました。

「そこで彼らは、その日から、イエスを殺すための計画を立てた。」(ヨハネ11:53)

イエス様は神様です。全てのことを知っておられます。ラザロの復活の出来事の先に、十字架の道があることを知っていたのです。

「神の栄光」とはなんでしょうか?神の栄光が現れる瞬間とは、神の御心が成されたときであると言えます。

神である天の父の御心は何でしょうか?創世記の初めから天の父の御心は変わりません。それは、失われた魂が天の父の元に戻ってくることです。天の父が取った方法は、失われた神の子供たちを取り戻すために、イエス様を十字架につけることでした。

イエス様の十字架によって救いの道が開き、信じる者は天の父の元に戻って来るのです。このことは、天の父の長年の願いです。そのことによって神の栄光が現れるのです。

私たちが栄光という言葉を聞くと、何か輝かしいものをイメージしますが、聖書はそのようには言っていません。死ぬときに栄光が現れるのです。ヨハネの福音書12章23~25節にはこのようにあります。

「すると、イエスは彼らに答えて言われた。『人の子が栄光を受けるその時が来ました。まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。』」(ヨハネ12:23-25)

イエス様は一粒の麦となって十字架で死なれました。十字架によって栄光を受けられたのです。そして、死んで終わりではなく、イエス様は復活されました。復活によって信じる私たちに永遠の命を豊かに与えてくださいました。死の先に復活があるのです。

天の父も、クリスチャンがイエス様と同じように一粒の麦となり死ぬことを願っておられます。クリスチャンが自分の肉に死ぬときに、復活の力が働き、豊かな実を結ぶことになることを知っているからです。そのことによって、天の父が栄光をお受けになります。

日々の生活の中で、自分の十字架を背負う場面はあるでしょうか?確かに自分に死ぬことは簡単なことではありません。御言葉を実行しようとすると必ず自分に死ななければならない領域がやってきます。しかし、私たちが忍耐をもって御言葉に従順に従うときに神は栄光を受けられます。

「死と葬りと復活」を通してイエス様は栄光を現されました。このようなイエス様の姿を見続けて人生を歩んでいきましょう。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)

今日も一日、皆様の上にイエス様の豊かな恵みがありますように。

■A:考えてみよう

「それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」(マルコ8:34)

イエス様はこのように言っています。日々の生活の中で負うべき自分の十字架は何でしょうか?今一度祈り、神様に聞いてみましょう。

負うべき十字架が示されたならば、それを負うことが出来るように熱心に祈り求めてみましょう。必ず私たちを通して神の栄光が現れることになります。

■P:祈り

愛する、イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 あきひろ 】

カテゴリー: マナメール

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