■S:今日の聖書の言葉
テモテへの手紙第一5章24〜25節

★ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。同じように、良い行いは、だれの目にも明らかですが、そうでない場合でも、いつまでも隠れたままでいることはありません。

■O:今日のコラム
私たちはこの地上での歩みを終える時、すべてを知っておられる「全知全能」なる神様の御前に立ち、唯一正しいお方「審判者」なる方から裁きを受けます。

「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。」(ヘブル4:13)

「なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(Ⅱコリント5:10)

地上の歩みにおいて、誰からも評価されず称賛されなかった「良い行い」も、人の目には隠し通すことができた「罪」も、私たちが天の御座に立つ時に、それらは全て神様によって明らかにされます。

今日の御言葉から、神様が評価してくださる、報いをくださる、という「望み」を抱きつつも、すべての罪は必ず明らかにされる、という罪を軽く扱わない心、裁き主なる主に対する「恐れ」を持つ必要があります。

ダビデは詩篇において告白しています。

「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。セラ」(詩篇31:5)

また、山上の垂訓においては、このように書かれています。

「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。」(マタイ6:1)

主からの愛を受けて、私たちは主を愛するが故に「罪」を憎み「良い行い」をしたいと願うようになります。

■A:考えてみよう
ですが、考えてみたいと思います。私たちの生きる目的は「罪を犯さないこと」でも「良い行いをすること」でもありません。イエス様から目を離すときに、自分を見つめるときにそれは宗教になってしまいます。

私たちは、自分が何ができたか何ができなかったか、善悪の木に行くのではなく、いのちの木であるイエス様のもとに、十字架にいつも走り行くべきです。

今日の御言葉で「罪」と「良い行い」が明らかにされる、と書いてありましたが、私の中に
・罪を隠そうとする「アダム」の性質がないだろうか。
・自分が何か成し遂げたこと、自分の栄光を見せびらかしたい「サタン」「律法学者、偽善者」の性質がないだろうか。
聖霊様に心を探られました。この二つのものを、絶えず十字架に打ちつけたいと願います。恵みによって罪が赦され、また成し遂げたことさえも神様の恵みによることです。すべての冠は、ただひとりの王、イエス様のものです。

来たるべき日に全てが明らかにされます。望みと恐れを抱きつつ、今日も十字架の御前に走り行きましょう。何度も立ち返り続けましょう。良い行いをも私たちに備えてくださるお方(エペソ2:10)に感謝と栄光をお返ししていきましょう。

全ての罪の代価を支払ってくださった、イエス様の命がけの愛と赦しに感謝し、勝利の旗印である主の愛を掲げて、主をほめたたえて歩んでいきましょう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 あい 】

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