■S:今日の聖書の言葉
ルカの福音書7章47節

★だから、 わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。 それは彼女がよけい愛したからです。 しかし少ししか赦されない者は、 少ししか愛しません。 」

■O:今日のコラム
私たちはなぜ主を愛そうと努め、もっと主を愛したいと願い、またもっと主を愛さなければ、と思うのでしょうか。もちろん、それが第1の戒めであるからというのが1番の理由でしょう。

主を愛するために人は様々なことをします。礼拝を捧げ、自分を捧げ、神と人とに仕え、みことばを愛し、献金を捧げ…etc 私たちは何故、礼拝、献金、奉仕、伝道をするのでしょうか。その行いの理由、動機、またその原動力はどこにあるのでしょうか?

今日の箇所で、「ひとりの罪深い女」は、涙でイエス様の御足をぬらし、自分の髪でそれを拭い、御足に口づけして、全財産にあたる香油を注ぎました。その姿をみて、主は上記のようにこの女性のことを語られました。

この女性が主を愛していた理由はなんでしょうか?それは「赦されるため、救われるため」ではなく、「すでに赦された」から、「すでに救われた」から、主を愛していたのです。

今日の御言葉は、「多く愛する者が多く赦される」というように思われがちです。そのため、多く赦してもらうために、多く捧げなければ、たくさん仕えなければ、、、という誤解が生まれます。けれども、この箇所は「人は赦された結果、そのあらわれとして、主をさらに愛する者へと行いが変わっていく」という意味であります。

そして、ここに出てくる「多くの罪は赦されている」という言葉は、原文では、「過去において赦され、なおも赦され続けている」という意味合いがあります。

私たちは何故、日々わざわざ自分の汚れや罪を探し、悔い改めるのでしょうか。悔い改める時に私たちはあることを知ります。それは「こんな自分のためにイエス様が命を捨ててくださったこと」また「こんなに罪深く醜い自分を赦してくださった主の愛の深さ」であります。

彼女が全財産、人生そのものに相当する高価な香油を捧げることができたその動機、その献身の原動力となったもの、それは「こんな罪深い私を赦して愛して下さった方へ、私の持てるすべての愛をお返ししたい」という思いだったのではないでしょうか。

自分自身、クリスチャン家庭に生まれ、それほど大きな罪を犯してもいないし、自分はそれなりに義人だと思って生きていました。ある時、自分の中にあるどうしようもない罪の性質を見せられ、「この自分の罪こそがイエス様を十字架につけてしまったのだ」という罪に対する悟りが与えられ、心がえぐられる思いになり、深い悔い改めのへと導かれました。

その後に、自分のうちには「こんな私を赦し愛してくださった方に、私はどのようにしてお返し出来るのだろうか。なんという恵みなのだろうか!愛する方に持てるすべてを捧げたい!」という思いが湧き上がるように変えられていったのを覚えています。その思いこそが、私の主への礼拝の源泉となっています。

私自身が今日の御言葉を読んでいつも思うこと。それは自分の赦された罪を「より多く悟る者」が「より多く主を愛する者」となるのではないか、ということです。どれほどに赦されているのかを知らなくては、感謝も愛も捧げる思いも、そこそこにしか湧き上がらないのではないでしょうか。

時に私たちは「主を愛さなくては…」と義務のように感じて、主に捧げきれていない自分、仕えていない自分、祈っていない自分、主を愛していないように思える自分を見て焦りを覚えることがあるかも知れません。このままではいけない、と思っていても、どうにもできずに葛藤します。

けれども、私たちが悔い改めを通して、自分がどれほどの罪を赦された者なのか、また現在においてもどれほどの罪が赦され続けているのか、を悟る時に、私たちのうちには、この女性が持っていたような、主への忠誠心と愛が生まれます。

悔い改めを通して、自分の罪の醜さ、そしてそんな自分を赦してくださった十字架の愛の偉大さを悟るなら、「主を愛さなくては…」という焦燥感は、「主を愛さずにはいられない。このお方に捧げずにはいられない。こんな私を赦し愛してくださったお方を、喜ばせずにはいられない。」という情熱へと変えられるでしょう。

■A:考えてみよう
自分には礼拝を捧げる喜びがあるだろうか。日曜日にどんな予定を犠牲にしてでも礼拝を選びたいと思うだろうか。それとも、クリスチャンだから、決まりだから礼拝を守っているだろうか。みことば、祈りが重荷となっているだろうか。「主を愛さなくては…」と義務感と焦りを覚えているだろうか。主に捧げ、仕えることの動機、また原動力がどこにあるのかを探ってみよう。

もし自分の捧げる動機が「赦されるため」「救われるため」であるなら、その動機を変えていただく必要があります。まずは、自分のどれほどの罪が赦されたのかを思い起こしてみよう。できれば悔い改めの祈りをもって、自分の罪を悟り、十字架の赦しと愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるのかを知ることが出来るように、祈り求めてみましょう。

■P:祈り
主よ。あなたの十字架の愛と赦しをありがとうございます。悲しみ落ち込むためではなく、よりあなたの愛の偉大さを知り、より喜びに満ちてあなたに捧げられるようになるために、今日、私の中の気付いていない罪を悟らせてください。
聖霊様、あなたの助けを求めます。唯一、私を義としてくださる十字架の血潮を褒め称えます。イエス様の十字架で流された血潮、赦しと愛のあらわれである血潮こそが、私の永遠に続く喜びの源であり、私の礼拝の理由であることを告白します。

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 みちる 】

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