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■S:今日の聖書の言葉
第一歴代誌11章17-19節

★ダビデはしきりに望んで言った。「だれか、ベツレヘムの門にある井戸の水を飲ませてくれたらなあ。」
すると、この三人は、ペリシテ人の陣営を突き抜けて、ベツレヘムの門にある井戸から水を汲み、それを携えてダビデのところに持って来た。ダビデはそれを飲もうとはせず、それを注いで主にささげて、
言った。「そんなことをするなど、わが神の御前に、絶対にできません。これらいのちをかけた人たちの血が、私に飲めましょうか。彼らはいのちをかけてこれを運んで来たのです。」彼は、それを飲もうとはしなかった。三勇士は、このようなことをしたのである。

■O:今日のコラム
第一歴代誌10章でサウル王が死に、11章でダビデがイスラエルの王となりました。この11章には、ダビデの勇士のかしらたちの名前が記されています。その中に、ペリシテ人の支配下にあったベツレヘムの門の井戸から、いのちをかけて水を汲んできた三人の勇士たちが出てきます。

彼らの名はヤショブアム、エルアザル、シャマ(Ⅱサムエル23:11)です。彼らはほかの勇士たちよりもまさっていました。三人のかしらであるアブシャイやダビデの護衛長ベナヤも、「あの三人には及ばなかった」とあります(Ⅰ歴代11:20-21,24-25)

なぜ、彼らはこのような賞賛を受けたのでしょうか。

ダビデは、彼らが汲んできた水を「いのちをかけた人たちの血」と言い、それを飲まずに、それを注いで主に捧げました。一見、なぜ…と思ってしまいます。しかし、飲まなかったのではなく、飲めなかったのです。

ダビデは主の心にかなった者でした。主の心をダビデは声にしたのではないかと思います。彼らが汲んできた水は、彼らのいのちをかけた従順であり、それは主が喜ばれる、主への捧げものとなったのです。

「するとサムエルは言った。『主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。』(Ⅰサムエル15:22)

聖書で「聞く」と「従う」はセットで書かれています。ヤコブ書には、聞くだけの者であってはいけませんとあります(ヤコブ1:22)。聞いたら、従うこと、行うことが大事なのです。

今日の箇所で、三勇士はダビデの声を聞いて従いました。しかし、彼らは初めからこのように聞き従うことができる者だったのでしょうか。最初から、ペリシテ人を打ち殺す強さ、ダビデを支える力ある勇士だったのでしょうか。

「また、困窮している者、負債のある者、不満のある者たちもみな、彼のところに集まって来たので、ダビデは彼らの長となった。こうして、約四百人の者が彼とともにいるようになった。」(Ⅰサムエル記22:2)

ダビデのもとに集まったのは、このような人たちでした。この者たちがダビデと共に過ごし、サウルの追跡と苦難を耐え抜いた結果、勝利を治める力ある勇士、王の声に聞き従う、いのちをかけた勇士となったのです。ダビデと彼らの信頼関係は、ダビデの王国、王権を強固にしました(Ⅰ歴代誌11:10)。このことは、私たちへの励ましだと感じます。

私たちは今、誰と過ごし、誰の声を聞き、誰についていっているでしょうか。誰に、また何にいのちをかけているでしょうか。時間をかけているでしょうか。

「いのちをかける」ということは、そこに全生涯、自分のすべてを捧げるということです。ダビデはキリストの型です。私たちがイエス様と共に過ごし、イエス様の声を聞き、イエス様に従い、ついていくなら、私たちは主の勇士として勝利を治める者となるのです。そのためには、いのちをかけなければなりません。私たちのいのちをイエス様に捧げる者となりましょう。

イエス様が王として治める御国と王権が、私たち一人一人、主の勇士たちによって、この地上においても力強くあらわされていくことを信じます。

■A:考えてみよう
・私たちは王である主の声に耳を傾けているでしょうか。自分の声や人の声を聞いていないだろうか。今日、主が語られる声を聞いて、その声に従う者となっていくことが出来ますように。

・私は「キリストいのち」という賛美が好きです。この歌詞にあるように、どこまでもイエス・キリストについていく者となりたいと願います。私たちのいのち、時間、お金、与えられているものを、絶えずイエス様に捧げることを選び取っていくことが出来ますように!
それを助けて下さる聖霊様の力を今日も受け取っていきましょう。

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 ささまな 】

カテゴリー: マナメール

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