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■S:今日の聖書の言葉
Ⅱ列王記2章19~21節

★この町の人々がエリシャに言った。「あなたさまもご覧のとおり、この町は住むのには良いのですが、水が悪く、この土地は流産が多いのです。」
すると、エリシャは言った。「新しい皿に塩を盛って、私のところに持って来なさい。」人々は彼のところにそれを持って来た。
エリシャは水の源のところに行って、塩をそこに投げ込んで言った。「主はこう仰せられる。『わたしはこの水をいやした。ここからは、もう、死も流産も起こらない。』」

■O:今日のコラム
この町の人々とはエリコの町の人々のことです(18節)。エリコは、この世の要塞の象徴です。ヨシュアが約束の地に入る時に最初に打ち破らなければならなかったのはエリコです。エリコは、強力な城壁のある要塞のような町でしたが、神の民の叫び声によって崩れ落ちました。新約聖書でも、神の武具によって偽りによって出来た要塞が壊されることが書かれています。

「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」(Ⅱコリ10:4)

「住むには良い」とありますが、エリコは罪に満ちているので、住みやすいのです。アブラハムとロトが旅の途中、別れる時にもロトの選んだソドムの地は罪に満ちていましたが、住むのに良く見えたのです。エリコは水が悪く流産が多かったとあります。それはそこに流れている霊性が悪かったことを意味します。

水は聖書では、御霊の息吹を受けた神の言葉(レーマ)と御霊ご自身を指しています。そこに新しい皿に盛られた塩が運ばれて来ます。この新しい「皿」とは、新しい「器」のことです。つまり私たちです。塩とは、自分の全てを捧げた結果得られる、自我に死んだ人が得るものです。全てのものは、火によって塩気を付けられる、と聖書にありますが、原語で見ると、全てのいけにえは火によって塩気を付けられる、なのです。つまり自分自身を生きたきよい捧げものとして差し出してこそ得られるものなのです。その塩が、水の源に投げ込まれるとその地域を癒して、死が去っていき、流産がなくなり、いのちが生み出されるようになったのです。つまりリバイバルがエリコにやって来たのです!ハレルヤ!

「私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。」とあるように、私たちの中にもエリコのような間違った考え方の要塞があるのです。私たちの中にその町を癒すほどのいのちの泉が湧き上がるためには、古い人に死に、いのちの泉である、主に飛び込んでいく必要があります。

同様に私たちの家庭、学校、職場においても、リバイバルを見たいならば、そこが汚れているから、と身を引いていくのではなく、古い人に死んでその中心に飛び込んでいく必要があります。主は、大宣教命令で「出て行って」と言っておられます。新約の聖徒は、汚れにきよさをもたらす力に預かっているのです。

決して強引なやり方を勧めているのではありません。しかし大胆であるべきです。その学校、職場、家庭の人々を恐れずに愛するべきです。私たちは、色々理由を見つけて愛することに引っ込み思案になりやすいのです。本当は主が「人にバカにされてもいいから親切にしなさい」と言っていないでしょうか?「人からなんて言われるか?を恐れるのでなく、神である私から褒められることを求めよ」と言っていないでしょうか?

全き愛は恐れを締め出すのです。私たちは地(この世)に投げ込まれる地の塩なのです。私たちが教会で燃えているように、どこにいても、何をしていても、神の愛に燃えて輝くことが出来るのです。私たちは世の光なのです!

■A:考えてみよう
祈りの中で悔い改めて、古い人に死にましょう。自分を捧げて御霊の火を受け取りましょう!塩気を得るのです。そして十字架の恵みを受け取りましょう。十字架に自分の古い人をつけるのです。そしてキリストの血の力を宣言しましょう!主の血は、私たちの罪の鎖を断ち切ります。

祈りの中で御霊に満たされましょう!主の臨在と共に、遣わされている領域で人々を激しく愛しましょう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

カテゴリー: マナメール

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