■S:今日の聖書の言葉
マルコによる福音書10章24節

★金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。

■O:今日のコラム
マルコの福音書10章17~22節には、永遠のいのちを求めてイエス様のもとに来た金持ちが、悲しみながら立ち去った出来事が記されています。

その姿を見てイエス様は「金持ちが神の国に入ることは難しい」とおっしゃいました。けれども、金持ちでありながら、イエス様と出会って救われた人がいます。ザアカイです。今朝はこの二人の金持ちを比較しつつ、御言に聴いてゆきたいと思います。(ですので、ルカの福音書19:1~10も併せてお読み下さい)

(1)「良いこと」を求めた青年と、「良い方」を求めたザアカイ
今朝の箇所は、マタイの福音書では金持ちの「青年」と書かれてあり、この青年はイエス様に「永遠のいのちを得るためには、どんな『良いこと』をしたらよいのですか?」と質問しています。これに対して、イエス様は「なぜ『良いこと』について尋ねるのか?」「『良い方』は、ひとりだけです」とお答えになりました。つまり、青年の質問自体が間違っている、と正されたのです。

「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」(ヨハネ17:3)

「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたし(イエス)についてあかしをするものである。」(ヨハネ5:39 口語訳)

永遠のいのちを得るために、青年は「良いこと」ではなく、「良い方」を求めるべきでした。

一方、ザアカイは「イエスがどんな方か見よう」(ルカ19:3)として木に登りました。永遠のいのちを求めていた青年と比べるなら、その動機はきわめて弱い、というか低い、というか、興味本位ではありましたが、しかし彼が求めた方向は間違っていませんでした。ザアカイは「イエス様ご自身」に向かって行ったのです。その結果、イエス様と出会い、救われました。

私たちも「イエス様から何かを得よう」という求め方ではなく(青年は永遠のいのちを得るための「情報」を求めました)、「イエス様ご自身」を求めてゆくべきであります。今朝、まずこの点を自分自身に問いたいと思います。間違った求め方であってはなりません。

(2)金持ちである、ということ
イエス様は確かに「金持ちが神の国に入ることは難しい」とおっしゃいました。では貧乏であれば神の国に入れるのでしょうか?

a.神と富に兼ね仕えることはできない
イエス様は山上の垂訓で「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。・・・あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。・・・だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。」と言われました(マタイ6:19~24)

地上の富が誘惑となることは事実です。聖書は、金銭を愛したために信仰から迷い出てしまった悲劇を示して、警告しています。(1テモテ6:9~10)

b.財力は分かち合うためにある
では、富自体が悪であり、貧乏が望ましい状態なのでしょうか?聖書全体を読むならば、そういう結論には至りません。(むしろ聖書は怠惰と、そこから来る貧しさに陥らないよう戒めている。箴言6:6~11ほか多数)

けれども、富を「独り占め」することは、聖書的ではありません。ここで詳細には論じられませんが、聖書は「各自与えられた能力の限りを尽くして働き、成果を出しなさい」「しかし、多く得た者も余ることなく、少なく得た者も不足しないように分配しなさい」(参照 出エジプト16:18)これが聖書の示す社会であり共同体の在り方です。

ぶどう園で早朝から働いた者と夕方5時から働いた者とでは、当然、生産物に大きな差があります。しかし、誰もが皆、生きてゆくために必要な収入の額というものがあります。ですから主人は全員に1デナリずつ与えました。(マタイ20:1~16)

主は富める青年に「富を捨てて来なさい」とは言われませんでした。「売って貧しい人たちに与えなさい」(マルコ10:21)と言われました。つまり、財力のある人は、それを自分が贅沢に暮らすために使うのではなく、他者を助けるために用いなさい、と聖書は言っています。これは何も、大金持ちに対してだけ言われている言葉でなく、我々すべての者に対して語られている主の言葉です。

c.ザアカイは主人が替わった
以前のザアカイは「お金」が主人でした。そうです。当時取税人になる、ということは、お金以外に何もありません。同胞から「売国奴」「罪人」と蔑まれ、憎まれながら、ローマの手先となって請け負った税金を徴収するのです。誰からも愛されない、、、皆から嫌われる、、、それでも取税人をやるからにはお金しかありません。

その彼がイエス様の前で立ち上がって、「主よ、私は財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」(ルカ19:8)と言ったのです。主人が替わった瞬間でした。その姿をご覧になってイエス様は「今日、救いがこの家に来ました」と言われました。

(3)イエス様の態度の違い
さて、ここまで二人の金持ちを見てきましたが、率直なところ、かの二人に対するイエス様の態度が、あまりにも違い過ぎはしないか、という思いに駆られませんか?

確かにザアカイは立派です。いさぎよく自分の財産を手放しました。しかも自ら進んで、です。でも、イエス様は彼に対して、深い愛を示されたではありませんか?孤独で、誰からも相手にされていなかった彼に対して、「ザアカイよ」と名前を呼び、「今日はあなたの家に泊まることにしているから、急いで降りて来なさい」と声をかけて下さいました。ザアカイは感激しました。そしてイエス様の愛に触れられて、彼はまことの神に立ち返ったのです。

けれども、あの金持ちの青年に対してはどうでしょう。彼はイエス様の御前に走り寄ってひざまずいたのです(謙虚です)。戒めを守ってきました(真面目です、熱心です)。そんな青年に対してイエス様は、ピシャリと歯に衣着せず言われました。「帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。・・・そのうえで、わたしについて来なさい。」(マルコ10:21)

え~イエス様、、、それは厳し過ぎるのではないですか?ザアカイみたいに、もう少し優しく接してあげれば、、、と思うでしょうか、、、。
私はここにイエス様の深い愛を感じます。

「しもべは言葉だけで訓練することはできない、彼は聞いて知っても、心にとめないからである。」(箴言29:19 口語訳)

「愚かなことが子供の心の中につながれている、懲らしめのむちは、これを遠く追いだす。」(箴言22:15 口語訳)

ひとには時として、言葉でいくら説明されても悟れないことがあります。この青年の一番の問題は「自分は戒めを守れている」という点にありました。この認識が砕かれることが、どうしても必要でした。マタイの福音書では「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」とのイエス様の言葉に、青年は「守っています」と答えています。本当でしょうか?であるなら貧しい人たちに分かち合えたはずです。

自分では「守れている」と思っていても、主の基準からすれば、到底、届いていないのが私たちです。このことを悟るためには日々、主と共に歩む以外にありません。ですからイエス様は「そのうえで、わたしについて来なさい」と言われたのです。

青年は主のもとを立ち去りましたが、私は、彼は御国に一歩近づいたと信じます。なぜなら、それまで彼は「自分は律法を守れている」と自負していましたが、今は、主に従えない自分を知らされ、悲しんでいるからです。少なくとも今のままで良い、とは思っていません。

パリサイ人、律法学者らは、どんなにイエス様に戒められても、反発し、憎悪を抱くばかりで、一向に砕かれることはありませんでしたが、この青年は悲しんだのです。そこに希望があります。聖書にはその後のことは書かれていませんが、私はこの青年は、このまま終わらなかったと信じます。

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。」(ヘブル12:5)

主に懲らしめられるとき、素直に心砕かれる者となりましょう。

■A:考えてみよう
主の愛はまことに深い愛です。通り一遍の薄っぺらなものではありません。
主の訓練を(辛くても)感謝して受け、共に霊的成長を目指して進みましょう!

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 よしかず 】

カテゴリー: マナメール

オンライン献金はこちらから。

大きな額の献金は手数料の少ない口座振り込みをお勧めいたします。

オンラインサポートの手順

Comments are closed.

  • 最近のコメント

  • 新宿シャローム教会 大久保会堂


    〒169-0073 東京都新宿区百人町1-23-24アミューズ大久保ビル2F
    TEL 03-3371-7558
  • アーカイブ

  • カテゴリー