■S:今日の聖書の言葉

箴言19章25節(ルカによる福音書19章)

★ あざける者を打て。そうすれば、わきまえのない者は利口になる。悟りのある者を責めよ。そうすれば、彼は知識をわきまえる。

■O:今日のコラム

みなさんの中には、誰かを教育する立場を持っていらっしゃる方が大勢いらっしゃると思います。誰しも教わる立場であり、また教える立場でもあります。その両方があって健全であると思います。

箴言は、父から子への訓戒の部分から始まります。つまり教育です。

ここで箴言は、2タイプの教え子に対してのアプローチを記しています。それは、あざける者、愚かな者、わきまえのない者に対してと、賢い者、悟りがある者、利口な者に対してです。

賢い者、知恵ある者とは、主を恐れ、御霊に満たされている者ということもできます。主を恐ることは知恵のはじめ。そして十人の乙女のたとえから、油を備えている者は賢い娘だからです。だから、あざける者は、主を恐れず、主に逆らう者ということもできます。

あざける者は打ち、悟りある者は責めるのだと言っています。打つと責めるはどうちがうのでしょう?

他の箇所では、『あざける者が罰を受けるとき、わきまえのない者が知恵を得る。知恵のある者が学ぶとき、その人は知識を得る。』(箴言21章11節)とあります。

あざける者には罰、知恵ある者には、学びです。
あざける者を賢い者と同じ様に教育してはなりません。

『あざける者を責めるな。おそらく、彼はあなたを憎むだろう。知恵のある者を責めよ。そうすれば、彼はあなたを愛するだろう。知恵のある者に与えよ。彼はますます知恵を得よう。正しい者を教えよ。彼は理解を深めよう。』(箴言9章8-9節)とあります。

責めるとは、学びのことのようです。豚に真珠を投げてはならない、とも聖書にあります。

つまり、打つ、とは厳しい、痛みをともなう訓戒であり、責めるとは、励ましであり、学びです。

主の教育は、すべての人に全く同じように教えるのではなく、個別対応です。そして、より効果的な教え方を私達に示してくださっています。

霊的な意味においては、旧約時代と新約時代の教育を示しています。

旧約の時代、御霊に満たされた器は多くはなく、その時代には、神の心を悟ることは難しかったのです。そのような、神の心からどんどんそれて行く人々には、刑罰をともなった教え(律法)が用いられました。

『しかし私たちは知っています。律法は、もし次のことを知っていて正しく用いるならば、良いものです。

すなわち、律法は、正しい人のためにあるのではなく、律法を無視する不従順な者、不敬虔な罪人、汚らわしい俗物、父や母を殺す者、人を殺す者、不品行な者、男色をする者、人を誘拐する者、うそをつく者、偽証をする者などのため、またそのほか健全な教えにそむく事のためにあるのです。』(テモテへの手紙 第一 1章8‐10節)

一方、御霊に導かれる民は、私たちの教師である、御霊にある教育、恐れのない愛の中での教え、恵みの中での取り扱い、満ち足りた心を伴う敬虔の道を歩むことができるのです。 

■A:考えてみよう

あざける者は打ち、悟りある者は責める、ということを覚える。また主から、打たれるのではなく、学ばせていただきたいので、賢い者でありたい。

御霊に満たされている者=御霊によって祈っている者と、ますますなっていき、ますます恵みの教育を受けていきたい。 

■P:祈り

イエス・キリストのお名前によってお祈りします。アーメン。

【 まじまこ 】

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